鉄道公安職員

 

 現在のJRの源たる日本国有鉄道、そこが保有していた鉄道専門の警察組織として、鉄道公安というものがありました。JRの発足と共に消滅してしまったのですが、現役時代は、ここが主役のドラマがあったり(「鉄道公安36号」)、小説があったり(島田一夫「鉄道公安官」シリーズ)、映画の中で渋い脇役として活躍したり(「新幹線大爆破」)、なかなか有名であった様子。JR世代の管理人にとっては、実はなじみの薄い組織であったりするのですけれども(汗)「いまはなき…」という事で、取り上げてみました。

1.鉄道公安の発足

 日本国有鉄道が発足したのは戦後の事、よって鉄道公安が出来たのも戦後の事なのですが、しかるに鉄道専門の警察機構は古くから存在していました。まずは、由来からさかのぼって軽く見てみる事にしましょう。

 戦前においては、国家の行政機関の一部として国有鉄道がありました。変遷を詳しく述べる事は避けますが、明治の頭に当時の民部省鉄道掛として始まり、それから工部省、内閣直属の鉄道局、内務省、逓信省、再び内閣直属の鉄道院、独立して鉄道省…と、いろいろ、動いています。

 鉄道警察の始まりは、まず明治33年、鉄道営業法にて鉄道職員に対し、現行犯人を逮捕して警察官に引き渡す権限が与えたのが最初です。ただ、ここでは、現行犯の逮捕ができるというだけで、取調や証拠収拾といった捜査活動はできませんでした。

 その後大正12年に、勅令528号「司法警察官吏及び司法警察官吏の職務を行うべき者の指定に関する件」でもう少し強い権限が付与され、駅長以下駅の幹部や車掌を指名して司法警察業務に従事させる事が決まりました。指名に当たっては地方の鉄道局長が検事と協議するものとし、管轄する犯罪は「停車場又は列車に於ける現行犯」と定められました。従来は、現行犯を逮捕してもこれを警察官に引き渡すだけであったのが、捜査活動もできるようになったのです。

 これで、一応、駅や列車内での犯罪は、それが現行犯であれば鉄道の側で処理する仕組みが出来上がりました。しかし実際には、鉄道当局と司法省との取り決めにより、国有鉄道の側で司法警察業務の対象とする犯罪は鉄道営業法違反の現行犯のみに限られていました。その他の犯罪については、それが停車場・列車内の現行犯であっても、容疑者を逮捕し警察官に引致するにとどめ、捜査活動は警察・検察に任せる事になっていました。この制度で指名を受けた鉄道職員は「鉄道司法警察官吏」と呼ばれ、人数はおよそ1,000名ほどであったそうです。

 大正から昭和にかけての時代、鉄道司法警察官吏によって検挙された鉄道営業法違反者は、年によって変動はありますが、年間大体500〜600人余、多くても1,000人をやや上回るくらいです。官吏1人が1年間通して1人検挙するかしないか、という程度。駅の職員や車掌といった、本来の仕事がある人間を指名しているところから、司法警察業務に専念できる訳ではなく、従って検挙数もそう多くはならなかったようです。

 こうした状況を一変させてしまったのが、戦争と、敗戦です。敗戦直後の経済混乱と社会混乱については、既に幾つかの項で何度か触れて来たので、ここでことさら触れる事は避けますけれども。鉄道においてもそれは例外ではなく、各種様々な犯罪が激増して大変な状態になってしまいました。列車内においては、すり、置き引き、無賃乗車、駅においては貨物盗難、加えて経済統制により自主流通が禁じられているはずの品を扱う闇屋やかつぎ屋がうろつき、同じく正規の購入路を使わない買い出しも横行し、それを狙う強盗さえも現れ、鉄道を巡る治安が極度に悪くなってしまったのです。

 昭和21年、司法省は、それまでの鉄道当局間との取り決めを改め、鉄道司法警察の組織を大幅に拡充する事を決定しました。すなわち、まず7月に、それまで駅の幹部職員と車掌に限られていた鉄道司法警察官吏のなり手を拡大し、旅客公衆の秩序維持・荷物事故防止を担当する一般職員をも含むとしました。また9月には、鉄道司法警察官吏の定員をそれまでの約1,000名から一気に4,573名まで増員し、摘発対象犯罪も、鉄道営業法違反の現行犯のみから停車場・列車内での窃盗その他11種類の犯罪の現行犯にまで拡大しました。

 この拡大で主力となったのが、それ以前昭和21年3月に設けられていた、旅客巡察・荷物事故防止を担当する一般の鉄道職員です。担当組織として駅には乗客掛・警備掛が設けられ、地方の鉄道局には旅客巡察員・荷物事故防止巡察員が置かれていましたが、しかるに設置当初は、彼らは鉄道司法警察官吏ではありませんでした。よって実際に事件が起こってしまうと取締りをしようにも権限がなく限界があったのですが、7月〜9月にかけての諸措置により、これが改まった訳です。

 しかるに。いかに、規模・権限上の大幅な拡大を見たとはいえ、ここで指名された鉄道司法警察官吏は、あくまで兼務として司法警察業務を行うものであり、それに専念するものではありませんでした。旅客巡視員だからといっていつもすりを警戒しているのではないし、警備掛だからといっていつも貨物窃盗を警戒しているのではありません。混雑時の事故やもめ事、あるいは荷崩れなどを起こさないようにというのが本来の意であって、警察専門なのではないのです。

 ここで、GHQからは、駅構内や列車内といった鉄道地域における治安の維持は原則として鉄道当局が当たるべし、とする指令が発せられました。そこで昭和22年、当時の運輸省は鉄道警察専任の組織を作る事を決定します。それまでの兼務による鉄道司法警察活動ではない、専任要員による鉄道司法警察組織の誕生です。

 昭和22年4月に、運輸省鉄道総局の内部に新たに鉄道公安事務局が設置されました。鉄道公安事務局の下部組織としては、まず地方にある9つの鉄道局に公安課を、その下の管理部に公安掛を置きました。配置要員は職員中から選抜し、3ヵ月の研修を経て司法警察職員に指定しました。正式には「鉄道警備専任者」といいますが、俗に「鉄道公安官」とも呼ばれました。

 鉄道公安官の人数は、昭和22年に1,045人、翌昭和23年には2,662人にもなります。一方従来からの兼務による鉄道司法警察官吏も年々増加し、昭和23年には6,253人に達していましたから、両者あわせると実に8,915人! 昭和21年当時、司法警察官吏といえば兼務要員が1,000名余しかいなかった事を考えると、これは大変な膨張ぶりです。それだけ、当時の治安が悪かったという事なのでしょうか…

 かくして誕生した鉄道警察専任組織、これが後に国鉄の鉄道公安組織に受け継がれます。

 運輸省の下で行政組織として存在していた国有鉄道が、国営企業体の「日本国有鉄道」に変わったのは、昭和24年6月です。GHQの指導の下で行政組織と企業活動の分離が進められる中で発足しました。ちなみに、先に紹介した専売公社が発足したのもこの時期です。

 国鉄発足当初の公安組織は、まず中央に鉄道公安局、地方の9鉄道局に公安課、鉄道局の管理部に公安掛という体制で、運輸省時代と同じです。さらに、管理部の附属機関として鉄道公安室・鉄道公安分室を各地に置き、2,570名の鉄道公安官が配置されました。

2.鉄道公安のはたらき

 戦後の混乱期に出来た鉄道警察専門組織、それを受け継ぎ生まれた日本国有鉄道の鉄道公安。ここでは、彼らのはたらきについて見てみます。

 生まれたばかりの鉄道公安組織は、その後も変遷を続けますが、昭和30年代にはほぼ固まります。まず、国鉄総裁の下に、中央機関として公安本部があります。地方組織は、結構複雑なのですけど、全国に27ある鉄道管理局の営業部あるいは運輸部が公安担当で、大抵のところには公安課が置かれていました。公安課のないところは、総務課に公安担当の主席がいました。鉄道管理局の下に、実際に公安要員が配置される鉄道公安室があり、必要に応じ分室・派出所も置かれました。ここもそれなりに組織変更があってややこしいのですが、試みに、国鉄がなくなる直前の昭和62年1月の数字を挙げますと、中央鉄道公安室10、鉄道公安室53、鉄道公安分室17、となっております。

 公安室以下に配置されて実際に鉄道警察業務に従事する要員は、正式には「鉄道公安職員」といいます。鉄道公安官という呼び方もありますが、これは運輸省時代からの俗称で、正式な名前ではありません。正式名称が決まったのは昭和25年8月、「鉄道公安職員の職務に関する法律」が定められ、これに合わせて決まりました。定員は時期によって増減あるものの、平均しておおよそ3,000人程度が配置されていました。

 ところで、警察や自衛隊にあるような階級制度は、鉄道公安職員には導入されなかったようです。あったのは職務上の位階分けのみで、下から公安員─公安班長─公安主任─公安室長、となります。公安室長より上は、鉄道管理局の公安課や総務課公安担当主席などになるのですけど、ここに鉄道公安職員が配置されていたかどうかは分かりません。

 彼らの権限ですが、国鉄発足当初は、運輸省時代と変わりません。対象は列車・停車場での現行犯に限られ、武器の携帯権もなく、警棒以上の得物は所持できませんでした。昭和25年8月に、すぐ上で紹介した法律「鉄道公安職員〜」が制定されてから、武器携帯権を持ち、また警察権も拡大します。

 同法にいう鉄道公安職員の警察権を簡単に説明すると、「国鉄の鉄道施設敷地内・列車内においては犯罪の捜査を行う。捜査に関しては、刑事訴訟法に規定する司法警察職員の捜査に関する規定を準用する。ただし、現行犯人あるいは被疑者を逮捕した場合は、これを検察官または警察官に引致する」というものになります。運輸省時代と違うのは、まず、いわゆる司法警察職員ではなく司法警察職員向けの規定を「準用」する職員となった点です。すなわち鉄道公安職員は、犯罪捜査権は持つものの司法警察職員ではない。犯罪捜査の対象は、運輸省時代の現行犯限定がなくなり、令状を請求しての捜索差押や通常逮捕・緊急逮捕も可能となりました。ただし、検挙したとしても自前で送検まで持って行く事はできませんでした。

 とはいえ、逮捕や証拠品押収などなら自前で出来ますから、本格的な警察活動を展開する事はできます。例えばすりを働く窃盗団がいたとして、たまたまその内の1人を挙げたとすると、その被疑者当人は直ちに警察なり検察なりに引き渡しますが、残る全員の検挙を狙った独自の突き上げ捜査を行う事はできます。そのために警察/検察へ出向き、既に引致した被疑者を尋問をする事もできます。あるいは例えば、置き石のような列車妨害を発見したとすれば、往来妨害等の疑いで捜査を開始でき、被疑者が特定されれば令状請求もその執行もできます。

 実際、こうして鉄道公安職員が検挙した犯罪は、年間およそ3,000件から4,000件ほど、多い年には1万件を越えます。またこの他、犯罪の検挙ではないですが、法令違反行為を是正するなどの処置活動が年に約50万件か、それ以上あったとの事です。

 さらに。鉄道公安は、独自の集団警備部隊も持っていました。その名も、鉄道公安機動隊、といいます。

 鉄道公安機動隊は、公安職員を集中的・機動的に運用し、輸送秩序を維持する事を目的として置かれました。事故や災害等の緊急事態における応援、繁忙期における駅区業務の応援や代行、新人教育、そして国鉄とは縁の深かった労働紛争に関連する警備実施、などを行いました。

 鉄道公安機動隊は全国に5隊置かれ、その内容と、昭和62年の時点での配置は以下の通りです。

東京鉄道公安機動隊
 昭和38年4月発足。隊長以下総員70名。首都圏本部東京中央鉄道公安室に配置
大阪鉄道公安機動隊
 昭和39年5月発足。隊長以下総員60名程度。大阪鉄道管理局大阪中央鉄道公安室に配置
札幌鉄道公安機動隊
 昭和39年4月発足。北海道総局札幌中央鉄道公安室に配置
新潟鉄道公安機動隊
 昭和40年6月発足。新潟鉄道管理局新潟中央鉄道公安室に配置
門司鉄道公安機動隊
 昭和39年6月発足。九州総局小倉中央鉄道公安室に配置

 前述したように、これら鉄道公安機動隊は警備部隊でありますから、そのための装備も整えていました。通常の制服とは別に、警備専用の出動服と出動靴、ヘルメットがありました。出動服の色は紺色で、警察の機動隊とも似ています。ヘルメットには、必要に応じて顔面保護用のバイザーを付ける事ができます。ただし、盾は装備していなかったようです。また、列車での輸送が不可能となった時に備え、各隊トラックを持っていました。早い時期に導入されたのか、写真で見ると、白塗り幌付きのボンネット型です。緊急自動車指定を受けていたかどうかは分かりません。(赤色灯を確認できなかったので)

 これに加え鉄道公安機動隊は、爆発物の処理についてもある程度訓練を受けていました。昭和42年以降、駅構内や列車内に手製爆弾を仕掛ける事件が発生したため、鉄道公安の側でもこれに対応するため訓練を積んだもののようです。ものの本などで紹介されているのは、タイヤと砂袋と防爆マットを使用した、割と原始的なものではありますが、それでも一応訓練はしていた訳です。

 以上、組織、権限、機動隊と来まして、最後に紹介するのは、鉄道公安職員の武器についてです。昭和25年制定の法律「鉄道公安職員〜」により、彼らは、職務遂行のため小型武器を携帯することができました。具体的には拳銃、米国製リボルバーであるコルト・オフィシャルポリス、またはS&W マスターピースを使用していたそうです。

 この拳銃、法には「携帯」とあるので、警察官の「所持」とは異り、必要ある時のみ携帯しそうでない場合には持たない、という形式になるかと思われる(海上保安庁などと同じ形式)のですけれども、写真などを見てみると、鉄道公安の制服要員は、結構普通に拳銃を持っていたようにも見えます。ちなみに携帯に当たっては、制服警察官と同様帯革に吊り、銃把に肩から伸ばしたラインヤードを繋ぎます。

 武器使用の条件は、「特に自己又は他人の生命又は身体の保護のため、やむを得ない必要があると認める相当の理由がある場合においては、その事態に応じ合理的に必要であると判断される限度において、武器を使用することができる」。合理的に必要であると判断される限度、というところが抽象的で分かりにくいのですけれども、現場では問題にならなかったのでしょうか。なお、鉄道公安職員による発砲があったかどうかは、分かりませんでした。

3.鉄道公安の終焉

 3,000人近くの要員を抱えて全国展開し、犯罪捜査権があって銃も持てて、しかも機動隊まである。なかなかの陣様を整えていた鉄道公安ですが…そんな彼らにも、終わりの時がやって来ます。

 なにゆえ国鉄がなくなってしまったのか、については、詳しくは述べませんけれども。端的に言えば、余りに効率が悪くて赤字だったから。以前、専売公社のところでも触れた昭和57年の臨時行政調査会の答申における「三公社五現業」の民営化方針、この中に国鉄も含まれていました。この答申を受けて国鉄再建監理委員会が発足し、幾つか緊急提言がなされました。当初は、「国鉄再建」を目指していたようですが、結局、「国鉄改革」→分割民営化という事になります。

 昭和60年に国鉄再建監理委員会が行った国鉄改革に関する答申中、鉄道公安については次のように触れられました。

「特殊会社とはいうものの株式会社の職員が命令、強制を中心とする公権の発動である捜査業務を行うことは適切でないので、現行制度は廃止する。なお、新経営形態の下での鉄道施設内における犯罪の捜査等鉄道に係る公安維持のための主体等については、政府において検討することとするが、検討に際しては、鉄道公安職員の引き継ぎも考慮する。」

 国鉄の民営化に伴い、はっきりと、鉄道公安制度廃止が打ち出されたのです。

 鉄道公安の後を受けて、鉄道敷地や列車での治安維持に当たるのは、都道府県警察です。任務の委譲のため、警察には、新たに2,882人の増員枠が設けられました。鉄道公安廃止で失職する公安職員の受け皿とするためです。ただし、そのまま横滑べりさせるのではなく、採用試験を行って採る事になっていました。大半の鉄道公安職員は警察官になりましたが、ごく一部、退職した者や、また試験に受からなかった者も出たそうです。

 昭和62年3月31日、国鉄よさようなら。そして翌4月1日、JRよこんにちは。時を同じくして、鉄道公安は消滅し、都道府県警察の中に新たに鉄道警察隊が発足しました。現在、鉄道警察隊は、各警察の地域部または生活安全部にあり、JRを中心として各鉄道における治安維持に当たっています。鉄道公安時代との大きな違いは、JR(旧国鉄)だけでなく公営の鉄道や私鉄までも守備範囲に収めた事、そして、警察官になったため司法警察権が完全なものになった事、です。

 
 
主要参考資料;
『日本国有鉄道百年史(全十三巻)』 編・刊:日本国有鉄道 1971〜1974
『鉄道公安の軌跡』 編・刊:日本国有鉄道公安本部 1987

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