専売公社監視員

 

 10代20代の若い人は、専売公社という名前を聞いてもぴんと来ないところがありましょうか。でも30代以上の方にとっては、思い出深くもなじみ深いところがあるんじゃないかと思います。

 その昔、と言うと失礼かもしれませんが、塩とたばこと樟脳については専売という制度があり、日本専売公社が取扱いを一手に引き受けていました。これらを売り買いして商売するには専売公社から許可をもらわなければならず、また産品の納入先も商品仕入れ元も専売公社ただ一社のみ。それ以外の、公社の許可を得ない売買取引・自主流通は一切禁止されていました。輸出入も、もちろん実施できるのは専売公社のみです。

 専売制度の眼目とするところは、益金を得て、国家の収入に充てる事です。たばこは嗜好品、塩は生活必需品、樟脳は貴重品、これらの流通を国家が管理し利益を上げ、税金の他に収入を得ようという訳です。

 歴史上これらの品がどう流通して来たかは、よく知らないのですが、専売制度が出来上がったのは明治時代の事です。当時は大蔵省が専売を管理し、省内に専売局を置いて、行政活動の一環として専売を行っていました。戦後、昭和24年に至り大蔵省専売局は廃止されますが、専売の制度そのものは存続しました。国家の行政組織ではなく、国営の企業体である日本専売公社に業務を移管し、そこが国から特別許可を受けて専売を引き受け、代わりに益金を国家に納入する仕組みにしたのです。

 この専売制度を確実に実施するために欠かせないのが、違反行為の検挙です。これは、専門用語で専売取締、あるいは専売監視と呼ばれました。資料の関係上、私が調べられた専売取締の話はたばこ関係だけに限られてしまうのですけれども。(^^;;)

 という事で、以下、たばこ限定の専売取締話。たばこの専売が始まったのは明治31年なのですが、それ以前も、たばこには明治9年制定の煙草税則に基づき特別税が課せられており、その違反、すなわち脱税が大蔵省によって取り締まられていました。明治31年以降は、脱税としてではなく、専売法規違反として摘発されるのですけれども、専売局設置以降明治後半から大正にかけては、かなり多数の違反があったようです。許可を受けないたばこ耕作、専売局に収めるべき葉たばこの横流し、たばこの密製造と密売、などなど。

 これを取り締まるために、当時の大蔵省専売局では、監視と称される摘発活動を行いました。監視に従事する官吏の人数は、当初勅令によって定められ、明治32年の段階で228名でした。活動に当たっては間接国税犯則者処分法を準用する事とし、裁判所の許可を得て臨検・捜索・差押の強制実施ができるようになっていました。実際、どの程度の違反があったかと言うと、たばこに限って言えば、専売制度発足直後の違反件数はなんと年間1万件以上、その後徐々に減っては来ますが、それでも7,000〜8,000件あるのが常。ようやく昭和5年に至って、犯則件数年1,000件を下回るようになったそうです。

 その後しばらくは小康状態が続くのですが、戦争を境に、また状況が一変悪化してしまいます。

 既に別項でも何度か触れたように、戦後の経済混乱は本当にひどいもので、専売制度で扱う塩・たばこ・樟脳についてもそれは同様でした。極端な物不足と、人心の荒廃。専売制度の違反件数は激増します。

 大蔵省専売局では、昭和22年末以降取り締まりを厳重に実施するために監視機構の整備を進め、昭和23年2月当時、専売取締に従事していた人員は全国で1,846人にも上ったそうです。この機構は、昭和24年に専売公社が発足した時にも、そのまま受け継がれました。

 さて、ここで。専売公社の専売取締業務の内容について、少し解説を加える事とします。

 前にも触れた通り、専売公社取扱いの物資はすべて公社の許可の元に流通がなされており、たばこの場合、たばこの耕作・製造たばこの卸売と小売は、すべて許可が要りました。たばこ農家は、公社から許可を受けてたばこを耕作し、収穫した葉たばこは公社に納付し代金を受け取ります。公社はそれを、いわゆるたばこに加工し、卸業者に卸します。そこからさらに小売業者に卸され、販売となるのですけれど、卸・小売ともやはり公社から営業許可を受けなければなりません。彼らは公社から商品たるたばこを「買う」訳ですが、その他に、たばこの価格改定で益金が発生した時は、それを公社に納入する義務も負っていました。

 昭和24年5月に施行された「たばこ専売法」「塩専売法」「しょう脳専売法」では、違反の事例について国税犯則取締法の規定を準用し公社職員が摘発に当たるものと定められました。

 たばこ関係であれば、葉たばこの不納入あるいは横流し、許可を受けない密耕作、たばこの密製造、横流し、無許可販売、公社売り渡し分以外のたばこ(密造たばこや、在日米軍から流出した外国たばこ等)の不法所持、などなどの違反行為があります。これらを取り締まるに当たっては、国税犯則取締法の規定により、裁判所の許可を得て、臨検・捜索・差押の措置ができました。また、違反行為を現認し許可状を受ける暇がない場合にあっては、許可状なく取締りを行うことができました。かつ、これらの行為は公務に準ずるものとなり、取締りの妨害は公務執行妨害罪に当たるとされました。ただし、司法警察権は与えられず、逮捕権・武器携帯権もありませんでした。

 専売制度の心は、要するにそれらの物をばんばん売って益金を吸い上げるところにあります。違反者を挙げるのは重要ですが、だからといって販売や消費を制限してしまってはおいしくありません。なので、国税犯則取締法を準用し、無許可物品を没収し罰金・追徴金を附課する行政処分、警察や検察に告発する司法処分の2通りの道を用意した訳です。丁度、国税査察と同じ構造です。

 ところで、国営とはいえ企業体の社員、つまり民間人である専売公社の職員に専売取締を担当させる事につき、異論がなかった訳ではありません。以前は大蔵省の官吏が取締りに従事しており、別に問題はなかったのですが、民間人となると、そのままでは従事させるのに問題があります。しかし、専売事業の運営体を専売取締りに従事させるのは、事業遂行上都合がいいし理にかなってもいる。という事で、結局、従来の体制を引き継いだ専売公社が専売取締りも担当する事になったのです。

 公社では、専売取締活動の事を専売監視と呼び、それに従事する職員を監視員と呼びました。公社発足直後の監視体制は、旧大蔵省専売局の体制をそのまま引き継いだ大規模なものです。昭和24年末、専売公社本社の販売部に監視課があり、全国17の地方局には監視部が置かれていました。さらにその下、全国の主要な支所には、監視課がありました。これら監視担当の地方事務部局の数は合わせて216ヶ所、従事する監視員の数は専従員1,415名・補助員366名の合計1,781人、監視予算は4億3,800万円に達しました。

 かように、なかなかの威容を示す専売公社の監視体制ですが、経済と世情が安定するにつれ、その規模は段々と縮小される事になります。昭和24年にたばこ専売法違反で検挙された人員は、全国で約4万人と大した数字(それでも、前年比で半分に減った数字なのです…)になっていますが、以降検挙者は減る傾向を示し、昭和34年にはほぼ半分の2万人代となります。違反の中身を見ても、戦後の混乱期に出現したような専売制度の根幹に関わるがごとき凶悪な違反事件は少ないものです。昭和33年9月には大規模な監視部門の整理が行われ、結果その陣様は、取締事務部局数96、専従監視員599名(他に補助監視員15名)、予算額7,100万円。10年で半分以下です。

 さらに昭和40年代に入ると、違反の数も激減し、その内容も軽微な違反がほとんどです。この時期の専売取締は、依然昭和20年代の手法を維持し検挙を第一とするものであり、違反者はかなりの割合で告発されていました。例えば海外旅行者が旅先で買い込んで来た外国たばこを持っている(=公社売り渡し分ではないたばこを所持している)、というようなありがちな違反であっても告発される事が多かったのです。それはそれで大切でしょうが、厳し過ぎて世情に合わずとする部分がかなり出て来ていました。

 昭和50年代に入り、専売取締は抜本的な改革を迫られます。それまでの検挙第一主義を見直し、軽微な違反には行政処分・行政指導で対応する事を基本とする方針に切替え、合わせて「市場環境対応」という業務を活動内容に加えました。市場環境対応とは、ありていに言えば調査活動なのですが、いわゆる市場調査とは異り、監視・指導という視点から調査を行いたばこ市場に関する情報を収拾しました。収拾した情報は、専売取締に活用されるだけでなく、他の事業部門にも提供されます。

 余談ですが。この市場環境対応活動の一環としてなされたのが、吸殻ポイ捨て防止キャンペーン「スモーキン・クリーン」です。「私は、捨てない」なんていうCMキャッチコピーに、聞き覚えある方も多いかと思います。

 さて、こうした業務上の変革があり、昭和54年4月、監視部門は再び大幅な組織改正を行います。本社営業本部の専売取締担当調査役(昔の監視課)を、市場環境・専売取締担当調査役と改め、地方局の監視部・監視課を廃止、営業部の下に新たに社会課を置き、そこが市場環境・専売取締の担当となりました。地方の社会課は各都道府県に1部局ずつ置かれる事となり、この結果専売取締事務部局は全国で47、社会課の要員195名中専売監視担当は100名というところまで減りました。人員規模だけを見れば、応時の10分の1以下でしかありません。

 かくして縮小に縮小を重ねた専売監視機構がなくなってしまうのは、昭和60年4月1日、専売公社が廃止され日本たばこ産業株式会社が発足した時です。

 専売公社が廃止に至る経緯は、私あまりよく理解していないのですけれど(^^;;)昭和57年の臨時行政調査会答申で、民営化の道筋がついたようです。この当時は財政赤字が膨れ上がり、行政改革が叫ばれていました。その中で提唱されたのが、専売公社を含む「三公社五現業」の廃止・民営化です。政府機関の現場業務部門と国営企業体を民間に委譲し、行政をスリム化して支出削減!というのが狙い。

 実は、専売公社は赤字を出していた訳ではないようなのですが(逆に、毎年益金を国庫に納入していた)、かと言って経営の先行き見通しが明るい訳でもなく、また海外、わけてもアメリカから、たばこ貿易自由化の障害になっているとして専売制度の廃止圧力がかかっていました。よって、この際民営化という事になったようです。

 まがりなりにも国営企業体であった専売公社と異り、新会社は株式会社です。筆頭株主は国なのですが、そうは言っても民間企業である事に変わりありません。専売の犯則は減り、かつ民間人に取締りを担当させるのはよろしくない、という事で、新会社発足と共に専売取締の歴史には幕が降りたのでした。

 
 
主要参考資料;
『樟脳専売史』 編・刊:日本専売公社 1956
『たばこ専売史』 編:日本専売公社専売史編集室 刊:日本専売公社 1964
『たばこ専売史(第5巻)』 編:日本専売公社専売史編さん室 刊:日本専売公社 1978
『たばこ専売史(第6巻)』 編:日本たばこ産業株式会社社史編簒室 刊:日本たばこ産業株式会社 1990

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