水際阻止

 

 密輸の話です。海上保安庁と言うと純白の巡視船のもたらすスマートな印象がまずもって頭に浮かびますが、それだけじゃない、もっとドロ臭い仕事もやってらっしゃいますよ〜……という話です。

 海保の密輸摘発は、具体的には船でもって海を越えて持ち込まれるものを水際で阻止する、というものです。あるものは洋上で捕捉し、またあるものは接岸したところで踏み込む。しかし実は、これがなかなか一筋縄では行きません。

 密輸監視・水際阻止と言っても、外国から来る船だけを張っておれば良いというものでもなく、例えば公海上で漁船に積み替えて何食わぬ顔で入港してくる、なんて事もあります。従って船という船は全部怪しい。ところで日本は島国、周りじゅう海ですから、港に出入りする船の数もはんぱなものではありません。貨物船から客船から、プレジャーボートから漁船から外国公船に至るまで。大変な数に上ります。これを全部監視するのは物理的に不可能です。

 また密輸される品物としては、今現在は拳銃と薬物が凶悪度ツートップを占めています。拳銃は小さく、薬物はいくらでも小分けが可能で、隠しやすい事この上ありません。上記の船の多さとあいまって、水際阻止なんて言っても、実際はこれが極めて難しい。

 そもそも、密輸は海保にとって長年相手としてきたものであり、その取締りは創設直後から既に問題となっていました。しかるに当初の密輸は、農産物や貴金属の密輸入/工業製品の密輸出がその内容であり、手口も未熟で、専門の取締り部門を設ける事はなかったようです。ところが時代が下り、薬物と銃器の密輸が行われるようになると、そうも言っておれない。

 薬物密輸の事を海保では「U」と呼称しており、密輸の内偵捜査を「U作業」と呼んでいました。U作業に従事する捜査班はU班というのですが、U班が常設されるようになったのは昭和49年、密輸容疑船の出入りする主要港湾のある管区を「U作業指定管区」とし、当港湾一帯を捜査担当地区とする特別情報班の設置が始まりました。特情班設置と並び、特定の巡視船艇を指定して悪質な事犯の捜査を担当させる特別捜査担当船の制度も昭和56年から始まっています。特別捜査担当船は俗に特捜船とも呼ばれ、乗組員は陸に上がって特情班と共に内偵に従事する事も珍しくない。かくして一線での捜査体制整備が進み、平成2年には本庁警備救難部警備第一課(当時)内に国際犯罪対策室が設けられました。

 この後各管区の特別情報班は、薬物に限らず銃器その他ひろく密輸を取り締まる機関としてそれぞれ管区本部警備課国際犯罪対策室、あるいは国際刑事課へと発展、また本庁警備第一課国際犯罪対策室は、平成13年の海保機構改革で国際刑事課に昇格し今に至ります。

 またこの他、水際阻止対策をうまく実行するため、海上保安学校門司分校で開講されている専門業務研修講座の1つに、潜在事犯担当者研修というものがあります。「薬物や拳銃密輸事犯など潜在事犯に関する情報収集活動、内偵捜査などに関する高度な専門的知識技能を修得させるための研修」であるそうな。要するに、陸の上でいろいろ内偵や捜査をするノウハウなんかを教え込むんでしょうね。

 ちなみに我が七管の場合、従来から密輸事件が多く、U作業指定を受けて昭和49年4月には早速本部警救部警備課にU班が編成されています。関門地区を主たる担当地区とし、当初「特別捜査班」と称していましたが、その後特別情報班と名を改めました。特情班は平成2年に国際犯罪対策室へと昇格し、平成7年には関門地区のみならず福岡地区での事件にも対応できるよう捜査拠点を増設、平成13年の機構改革を経て今では国際刑事課となっています。特別情報班と並び密輸捜査の手足となる特捜船指定も昭和56年4月から始まり、最初に指定されたのは門司海上保安部の巡視船「ひやま」でした。この後、巡視船「ひだか」、巡視艇「すわかぜ」、そして巡視艇「はやぎく」(いずれも門司保安部)と受け継がれています。

 さて、密輸を水際で阻止する実際の取締り体制ですが、まず総元締めとして本庁警備救難部に国際刑事課があります。また第三管区海上保安本部の下に、国際組織犯罪対策基地なる施設(というか組織)があります。ここの指示を受けて実際に動く部隊として、各海上保安管区に国際刑事課あるいは警備課国際犯罪対策室、さらに特捜船等があるという形になります。

 内偵で集められ情報、あるいは警察・税関・入管といった外部組織から入って来た情報は、国際組織犯罪対策基地に集積され、分析部門で分析されます。確度が高いとなると、捜査活動の指示がなされ、必要なら基地の国際組織犯罪捜査隊から捜査官が現地に派遣されます。

 こうした体制の元で行われる内偵もそれなりに独特で、あの漁船乗りはろくに漁にも出とらんのにえらい金回りええのう、だとか、最近港を見掛けん顔の連中がうろついとるのう、だとか。こういった船や港にからむ情報を集めて回っては事件化の端緒にするという話です。なるほどこれは、一口に情報収集と言っても、海保らしさの漂う味のある(笑)情報収集ではありませんか。

 これ以降捜査が始まり、取締りの手がかりを探って行くのですけれども。しかるに、やはりと言うべきか。海保の活動は海の上が主であるだけに陸上活動についてはあまり配慮が行き届いておらず、例えば車両を用いて捜査する場合、用いられるのは一般車両だそうです。つまり、正式塗装のものにしろ覆面にしろ、海保のパトカーというのはありません。陸上で取締りをする訳ではないので別段緊急車両指定をしてもらう必要はない、というのも一つの理由ではありますが、緊急車両の運転手を養成するための施設や予算の余裕なぞないというのも大きな理由のようですね。パトなしでは、張り込み中の容疑者が高飛びを図ったりした時など緊急時の対応に穴ができそうな気もしますけど……そこら辺りは警察と話をつけて何とかするのでしょう、多分。

 捜査が進み取引に関する情報が集まると、いよいよ取り締まりです。港で持ち込み船を迎えたり、海の上で取引き現場を押さえたりですね。特に容疑船・取引き現場の海上捕捉は、海保ならではです。が、これとても白や灰色に塗られた普通の巡視船艇を表に押し立てて行く…とは限りません。あれらは、陸の警察で言うなら白黒塗りのパトカーみたいなものです。夜はともかく、昼間はみだりに近付いて行けばすぐばれてしまう存在です。犯罪の現場を押さえるためには犯罪者にばれないように張り込みや監視、尾行をする必要がありますが、その際陸の警察は覆面パトを使います。だったら、海保も覆面パトを使えばいい。海上保安庁の持つ巡視船艇の中に「監視取締艇」というものがありますが、これは市販のボートに海保所要の艤装を施したものです。一見普通のプレジャーボートと変わらないような外見をしており、隠密行動に適しています。うむ、まさに海の面パト。この他に巡視船のレーダーによる監視であるとか、航空機による監視であるとか。こういった監視手段を組み合わせ、摘発を実施する訳です。

 密輸の手段は年を追って悪質・巧妙化しています。警察情報を受け、おっとり刀で密輸船を急襲すれば事足りた時代は終わりました。これからは海上保安官自らが陸に上がり、自分の足で情報を稼ぎ、そして隠密行動で犯罪者の裏をかいて取り締まらねばならないのです。

 余談ですが、治安にからむ海保の任務は「海上における犯罪の予防および鎮圧、海上における犯人の捜査および逮捕」ですから、海上保安官が陸上で捜査や情報収集活動を行う事につき異議を差し挟む向きもあります。

 が、これにはれっきとした反論がありまして、それはすなわち、文中の「海上における」の文言は「犯罪」「犯人」に掛かる修飾語である、という解釈です。「海上における」を予防鎮圧・捜査逮捕に掛けたいのなら「犯罪の海上における予防および鎮圧」とするだろうし、現に「法令の励行」についてはそう書いてある。それに、海上犯罪・海上に於ける犯罪という熟語もある。この辺りが解釈の根拠になっているようです。

 とこういう訳で、海で起こった犯罪の捜査や犯人の逮捕のために海上保安官が陸上で活動する事は、なんら差し支えなしとされています。うーんしかし、こりゃまるで国語の問題ですな。(苦笑)

 

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