革命政党日共

 

 問.日本共産党は暴力革命を目指している党か? この問いに対してYesと答える人は、今の世の中ではそうはいないでしょう。しかし治安関係者はそうは考えないようで、いまだに日本共産党は暴力でもって日本における共産主義革命を指向している政党である、と見なしていらっしゃるようです。その証拠に、いまだに共産党は、公安調査庁から調査対象団体指定を受けたままであり、破壊活動防止法による調査対象から外されていません。現在でも、公安調査庁にとって日共は要調査団体なのです。

 なぜ、いまだに日本共産党が調査対象となっているのか? その理由は2つあります。1つは、過去に組織的に武装闘争を行なった "前科" があるという事、そしてもう1つは、共産党の基本理念を顕したものである「綱領」に、武力革命を正当化するかのごとき文言が見られる、という事。まあ以下その理由の内容について見ていきますが、それを「もっともだ」とするか「屁理屈だ」とするかは読んでみたアナタ次第。(^^;

 まず第1の武装闘争の前科ですが、これは共産党自体が党大会を開き綱領を改定してまで武装闘争路線を採用したので、弁解の余地なしです。

 1951年10月の第5回全国協議会において、共産党は "日本の解放と民主的改革を、平和な手段によって達成し得ると考えるのは間違いである。" という「51年綱領」と、 "われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない。" とする「軍事方針」を採択しました。時に朝鮮戦争たけなわの頃、国内にはレッドパージの嵐が吹き荒れており、資本主義の「暴虐」ここに極まれリ……と判断されたんでしょう。

 かくしてここに、「火焔瓶闘争」と呼ばれる武装闘争が始まりました。各地で騒擾事件や襲撃事件が引き起こされ、治安情勢はにわかに悪化します。ここで一気に革命に持ち込もうというハラだったんでしょうが、しかしそううまくは行かず、やがて警察側による検挙攻勢や選挙での大敗によって、間もなく武装革命路線は頓挫してしまいます。

 1953年には朝鮮戦争も終結し、共産党は武装闘争戦術の転換を迫られる事になります。結果1955年、第6回全国協議会にて、共産党は武装闘争の方針を定めた51年綱領を廃止します。

 これ以後、共産党は現在に到るまで武装闘争に踏み切る気配を見せていないんですが、にもかかわらず公安調査庁が目を光らせている理由が、先にも述べた「現綱領の内容」です。

 現在の共産党の綱領は、1961年の第8回全国協議会で採択されたものです。さらにこれには、「綱領を正しく理解するための鍵」となる「日本革命の展望」という文章が付随していました。この両者の、特に後者の内容が問題とされているのです。

 すなわち、「日本革命の展望」中に

「革命への移行が(中略)平和的となるか非平和的となるかは結局敵の出方による」
「反動勢力が弾圧機関を武器として人民闘争の非流血的な前進を不可能にする措置に出た場合には、それにたいする闘争もさけることができないのは当然である」

というような文言が見られる。と言っても私が直接読んだ訳じゃあ、ないんですけど。(^^;

 これはいわゆる「敵の出方」論、と呼ばれているもので、調査庁はこれをもって、共産党は自らの武装革命路線の正当化を図っている、と見ているのです。すなわち、「敵」の出方次第では暴力革命に踏み切るぞという事を日共はここで述べている、そう読む訳です。ふむ……。

 又この他にも調査庁側は、共産党が "火焔瓶闘争" の総括を行なう際に用いた「極左冒険主義」という論法も理由の1つに挙げています。これは、いわゆる火焔瓶闘争は極左冒険主義であった、すなわち情勢を見誤って武装闘争に踏み切ってしまった、という論法なんですが。

 ここでは武装闘争そのものが否定されている訳ではなく、単に「情勢を見誤った」としているだけであり、これは裏返せば情勢が許せばいつでも武装闘争に出る事の現われだ……というのが、調査庁側の見解。ううむぅ。まあ、そうとも読めるかな。(^^;

 とまれここに挙げたような理由から、日本共産党は現在においてもいまだに公安調査庁から破防法にもとづく調査を受け続けているのであります。公安調査庁ができたのは昭和27年のことですから、そこから数えるとかれこれ40年以上。そして、共産党に対する肝心の団体規制請求は、未だになされたことはありません。

 

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