機長等

 

 飛行機の機長です。以前に船長等の項で、船長たる者には船員法に基づき船内秩序維持のための「懲戒権」がある、と書きました。飛行機の機長にも、実はこれと似た権限が与えられています。

 「航空機内で行なわれた犯罪その他ある種の行為に関する条約」という長い名前の条約がありますが、その第3章に機長の権限についての規定があります。それによると機長は、機内で犯罪又は危険行為をなす、あるいはなそうとする者に対し「妥当な措置」を行ない得るものとされています。

 妥当な措置とは、早い話が身柄の拘束です。で、この拘束のために機長は、拘束の援助を他の乗員に命じ、又は乗客に要請し、もしくは彼らの拘束行為を事後承認する事ができるということになっています。「拘束」ですから捜査権はなくて、拘束した者は降機させるなり当局に引き渡すなり、しないといけないんですけどね。

 とはいえ、機長に拘束の権限があるったって素人に何ができる……と思われる向きもあるかもしれません。確かに機長が自分で取り押えようとすると無理が出ますが、身柄拘束をも含む「妥当な措置」を事後承認するという項目があるところがポイントです。例えば、ハイジャックを企てナイフを取り出した奴にとっさに乗客乗員が飛びかかって取り押えた、というのもあっていい。実際、こういう機長追認の形でハイジャック犯が取り押えられたケースは、国内外を問わずそこそこあると聞きます。

 この条約、出来上がったのは昭和38年でした。東京で開催された国際民間航空機関(ICAO)会議で成立した条約なので別名を「東京条約」ともいい、日本と縁のある条約なのですが、しかるに条約成立当初、日本は東京条約に署名はしたものの、批准には至りませんでした。その理由は、ハイジャック防止のためには東京条約の内容では必ずしも十分ではないと考えられたため、また国内法改正の必要があってその調整に時間を要したため、であるとされています(*)。前者の理由、より具体的には

  1. ハイジャック機が外国(※航空機の登録国ではない国)へと飛行してしまった場合、機の着陸国が負うのは降機した容疑者の身柄拘束義務、航空機・貨物の登録国への返還義務、航空機の正当な管理回復のための援助等であり、ハイジャック行為の処罰や犯人引渡しなどは義務化されていないこと
  2. ハイジャック機の着陸国における容疑者身柄拘束義務にしても、国内法上可能な範囲で必要な限り果たせば可とする内容にとどまり、義務としては不徹底であること

等であるとされています(*)。

 そもそも東京条約の目的とするところは「航空機内の犯罪を抑制し、機内秩序を維持することによって国際航空の安全を確保すること」であり、この目的達成のために機長へ各種の権限を与えることを主たる内容としていました(*)。国境を越えたハイジャック行為を犯罪行為と捉え、ハイジャッカーをいかにして裁くか、というところまでは深く踏み込んではいませんでした。例えば、外国において外国籍の航空機内でハイジャックが発生したとして、その機が自国まで飛んで来たとき。東京条約の批准国は、犯罪者が機内で既に拘束されておれば機長からその引渡しを受け、いまだ拘束されていない場合には、機体が正当な管理下に戻るのに必要な「援助」を行い、また航空機と貨物をすみやかに関係者へ返還する義務を負います。が、よその国で、外国籍の航空機内で起きたハイジャックを自分の国で罰したり、犯罪者を引き渡したりする義務までは負いません。もちろん、進んでそこまで行う国もありましょうが、少なくとも条約上の義務ではない。

 加えて当時の東西対立が、問題に拍車をかけていました。上で出した2つの課題のうち特に1. の問題が大きく、当時、ICAO加盟国の中心は西側で、いわゆる東側の共産圏諸国はさほど加盟していませんでした。日本周辺にある共産圏国であるソ連、中華人民共和国、北朝鮮はいずれも未加盟でした。しかも、いざハイジャックが発生したとして、逃亡先に選ばれるのはこれら共産圏諸国である可能性が高い。ICAO未加盟ということは東京条約の枠組みにも不参加。ただでさえ条約上の犯人引き渡し義務がないというのに、これでは条約に入ったところでハイジャック機が共産圏に飛んでいってしまっては打つ手なし。(*)

 そういう訳で、東京条約とは、本気でハイジャック対策に取り組もうとすれば、いささか抜け穴なしとはしない内容であったらしい。まあ、条約の性格上仕方ないこと……と言ってしまっては失礼でしょうか。かくして、条約成立の会議開催国ながら、署名はしても批准にはいささか及び腰であった日本。それでも敢えて批准に踏み切ったきっかけは、「よど号」事件でした。

 この事件について細かく書く事はしません。ごくかいつまんで書けば、昭和45年の3月末に発生し4月頭に一応の解決をみた日本初のハイジャック事件です。犯人は極左過激派の赤軍派に属する9名。乗員・乗客は全員無事でしたが、犯人グループは韓国を経由してまんまと北朝鮮へ逃亡成功。ついでに、行った先の国が国だけに、乗員・機体そして人質の乗客の身代りとなった運輸政務次官が長期間抑留されて帰ってこれなくなるのでは?という心配まで引き起こした事件でした。

 ハイジャック機の飛んだ先が北朝鮮ということで、仮に事前に条約を批准していたとしてもまさに抜け穴を通られた恰好になってしまっていた事件なのですが、ともかくもこの「よど号」事件をきっかけに、日本はそれまで渋っていた東京条約の批准を決定。国会での審議を経て、同年中に批准に至りました。署名からは実に8年が過ぎていました。また条約批准に合わせて国内法も整備しています。具体的には、ハイジャックを犯罪として罰することを定めた「航空機の強取等の処罰に関する法律」(昭和45年5月18日法律第68号)、東京条約第13条に基づく機長からの容疑者引き渡し手続きについて定めた「航空機内で行なわれた犯罪その他ある種の行為に関する条約第十三条の規定の実施に関する法律」(昭和45年6月1日法律第112号)、そして今回のお題にもからむところの、機長の機内秩序維持権限等について定めるための航空法改正法「航空法の一部を改正する法律」(昭和45年5月23日法律第95号)です。

 現在(※平成19年1月現在)、日本の航空法では、第73条の3において「安全阻害行為等」という行為を定義しており、航空機内にある者がこれを行う事を禁止しています。にもかかわらず、そうした挙に出る者が出た場合。その場合、機長は、拘束その他安全阻害行為等を抑止するため幾つかの措置を取る事ができます。その具体的内容は、条約で定められた通り。

 機長(機長に事故があるときは、機長に代わつてその職務を行なうべきものとされている者。以下同じ。)は、当該航空機に乗り組んでその職務を行う者を指揮監督する。

航空法 第73条

 航空機内にある者は、当該航空機の安全を害し、当該航空機内にあるその者以外の者若しくは財産に危害を及ぼし、当該航空機内の秩序を乱し、又は当該航空機内の規律に違反する行為(以下「安全阻害行為等」という。)をしてはならない。

航空法 第73条の3

 機長は、航空機内にある者が、離陸のため当該航空機のすべての乗降口が閉ざされた時から着陸の後降機のためこれらの乗降口のうちいずれかが開かれる時までに、安全阻害行為等をし、又はしようとしていると信ずるに足りる相当な理由があるときは、当該航空機の安全の保持、当該航空機内にあるその者以外の者若しくは財産の保護又は当該航空機内の秩序若しくは規律の維持のために必要な限度で、その者に対し拘束その他安全阻害行為等を抑止するための措置(第五項の規定による命令を除く。)をとり、又はその者を降機させることができる。
2 機長は、前項の規定に基づき拘束している場合において、航空機を着陸させたときは、拘束されている者が拘束されたまま引き続き搭乗することに同意する場合及びその者を降機させないことについてやむを得ない事由がある場合を除き、その者を引き続き拘束したまま当該航空機を離陸させてはならない。
3 航空機内にある者は、機長の要請又は承認に基づき、機長が第一項の措置をとることに対し必要な援助を行うことができる。
4 (省略)
5 (省略)

航空法 第73条の4

 73条の4第1項に基づき、機長は、機の安全保持・機内の秩序維持・規律維持等のために「拘束その他安全阻害行為等を抑止するための措置」をとり、又は対象となる人物を降機せしめることができる。同条3項に基づき、機内にいる者は、機長の要請又は承認に基づき、機長が第1項の措置=拘束その他安全阻害行為等を抑止するための措置をとることに対する必要な援助を行うことができる。ここでいう「機内にいる者」とは、航空機の乗員はもちろん乗客も含み、乗客有志が機長の承認を得て、拘束その他抑止の措置をとることもできる。こういうことになっています。なお、要請ないし承認を行う「機長」とは、73条により、本来の機長に事故ある場合にその職務を代行する者も含みますので、この項は一応「機長等」と命名しております。

 ちなみに。上記航空法で与えられた機長等の権限は、あくまで、機の安全や機内の秩序・規律等を維持するために拘束その他抑止の措置をとり、あるいは他者の援助を要請・承認し、また拘束者を降機させるにとどまります。先の船長等の項では、船長は船員法に基づく懲戒権を持つのみならず刑事訴訟法上の司法警察職員として捜査権を行使することもできる、と書きました。この点は、機長等にはあてはまりません。機長等の仕事は、厄介者を取り押さえて機外につまみ出し、当局に突き出すだけ。機内の行為は犯罪也と、自ら捜査する事は認められていません。

 この点につき、よど事件の直後、機長に司法警察権を与えてみてはどうかという意見も一部あるにはあったようですが(*)、結局実現はしませんでした。同じ公共交通・輸送機関の「長」であるのになぜこういう違いが生まれたのかというと、ものの本では、航空機と船舶の航行時間の差が理由だとされています。曰く、航空機は航行時間が比較的短いため、着陸後に警察機関が捜査に乗り出すことで十分足りる。一方船舶は、比較的航行時間が長く、警察機関が容易に到着し得ない場合に船長が船内で証拠の収集・保全や調書の作製に当たる事も考えられる。さらに別な理由としては、司法警察権を付与するとそれに伴って義務も生ずるため、場合によっては機長が司法警察職員としての義務違反に問われることも考えられ、これを避けるため警察権は付与しない、というのもありました(*)。

 さてこれで、東京条約第3章の内容はおおむね国内法に反映されました。特徴と言えそうなのは、東京条約の中身は基本的に国際線の航空機を対象としているのに対し、航空法改正の効果は国際線のみならず国内線にも及び、従って国内線の機長も東京条約で求められるのと同等の権限を持つようになったことです。機長権限の強化対象を国際線のみに限らなかったのは、きっかけとなった「よど号」はそもそも国内線旅客機であったから。国内線旅客機であっても、ハイジャックの脅威は国際線並みにあると考えた上での独自の一手でした。(*)

 こうして機長権限の強化はなされたのですけれど、もちろん、これにてハイジャック対策は万全、などという事は全然ない。大掛かりなハイジャックになると、犯人は命を賭けて事に臨む覚悟でいる上に自動火器で武装していることもあり、こうなるともう素人有志で手が出せるものではありません。ものの本にも、「通常の場合には、今回のような機長の権限の強化の措置で足りると思われるが、ハイジャッキングの場合には確かに手ぬるいと思われる」なんて事がはっきりと書いてあります(*)。とはいえ一方で、先にもちょっと触れた通り、ハイジャックを企てナイフを取り出した奴にとっさに乗客乗員が飛びかかって取り押え、機長事後承認の形でハイジャック阻止に成功した例もあると聞きます(話を聞いただけで実例までは調べておらず失礼)。これを考えると、少なくとも無意味ではありますまい。

 なお、これで手ぬるいならばいっそ機長に銃を持たせてはどうか?という考えもありますが、よど号事件の時点では、この考えは却下されました。理由は、機内での銃撃となると機体に損傷が及び、航空機の安全な飛行に支障が出るから、というものです(*)。時は下って平成に至り、アメリカ同時多発テロが起きると再び同種の案が取り沙汰されもしましたが、銃器の扱いに慣れない者に銃を持たせるのはかえって危険、という事でやはり却下(*)。今のところ日本では実現していません。

 ただ、この話は「日本では」と限定を付けた上での話であって、外国ではハイジャック防止のため航空機の乗員に武装を施している国もあります。代表はアメリカで、かのアメリカ同時多発テロを受けて航空機乗務員の武装を認可する制度を始めており、現在(平成19年1月現在)では国土安全保障省の運輸安全局(TSA)が担当、Federal Flight Deck Officer programという名前で実施しています。(*)

 ところで。一部の国では、航空機に警備要員を同乗させてハイジャック対策に当てているとか。Sky MarshalあるいはAir Marhsal、と呼ばれています。機長の秩序維持権限とは少し違うのですが、同じく航空機の保安に関係する者という事で、取り上げてみます。

 

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