海難審判庁審判官

 

 人員・貨物を大量に輸送する船舶は、ひとたび事故が起きれば多大な損害を生みます。そのような重大な海難事故を未然に防止するために、既に起こった海難事故についてその原因を解明する事は極めて重要と言えます。

 ところで、海難の原因を究明するためには、ひとえに法規を参照するだけでなく、独特の海事法規に精通し、機関や航海といった船舶運営実務に関する知識を持ち、海と気象に対する理解がなければなりません。言葉を代えると、Sea Manとしての特技が要求されるのです。肌で知る荒天の本当の恐ろしさ、船舶運営にひそむ落とし穴、独特の慣習、etc。船は人が動かすものですから、こういう船の実態、生臭い部分を知ってこそ、海難の原因を解き明かす事もできるという訳です。

 また、船体の老朽化や設計ミスといった技術的問題から海難が発生する事もあるため、こちらの専門知識も欠かせません。荒天下機関室に浸水しエンジン停止!する事故があった、それはなぜ起きたか。設計ミスからビルジが逆流し、機関が水をかぶって停止したのか。それとも古いエンジンが過負荷に耐えられずオーバーヒートし、それで排水ポンプが止まってしまったのか。あるいは技術上何も問題はなく、船員が操作を誤ったのか…

 こうした特殊性に鑑み、海難事故の原因究明に関しては、特別に海難審判という制度が整備されています。

 海難審判の歴史は古く、さかのぼればその大本は明治9年、海難事故のために設立された臨時裁判所に行き付きます。当初は臨時のものでしかありませんでしたが、その後船員の免許についての規則「西洋形船船長運転手及機関手試験免状規則」が定められ、その中で審判制度も整備されます。この規則は明治14年に改正され、さらに明治29年、法律「海員懲戒法」へと受け継がれました。

 海員懲戒法で設置された審判機関は海員審判所といい、海難を引き起こした船員や水先案内人の過失を審査しました。「海員懲戒」という名前からも分かる通り、この法律の目的とするところは過失を犯した海員を懲戒する事です。船体構造や気象・海象といったところまで突っ込んで海難そのものの原因調査をする事は考えられていませんでした。

 海員の過失を審査する海員懲戒主義は、その後、真の意味で海難原因を調査するには不備があると言われるようになります。幾つかの事故を契機として(細部ははしょります・苦笑)明治末期頃から、海難そのものを審査対象とする海難原因探求主義が唱えられるようになり、第二次大戦後の昭和23年5月、海員懲戒法は廃止、新しい今の海難審判法が施行されました。

 海難審判法に基づき設置されているのが国土交通省外局海難審判庁です。大雑把に言えば、海難専門の裁判所みたいなとこ……と言えるでしょうか(あくまで、大雑把な表現です)。より具体的には、東京にある高等海難審判庁と地方にある7つの地方海難審判庁を、併せ総じて海難審判庁と呼びます。丁度、最高裁から簡裁までをまとめて裁判所と呼び、最高検から区検までをまとめて検察庁と呼ぶのと同じです。

 さて。日本の領海内で、あるいは日本国籍船の海難事故が起こると、海難審判庁の出番がやって来ます。まず、海難審判庁に付置してる海難審判理事所から理事官が出動し、海難に関する証拠を集めて回ります。理事官については後で改めて触れますが、理事官の行う調査に強制力はありません。

 理事官は、集めた証拠に基づき、海難審判が必要と判断すれば、地方海難審判庁に審判開始の申し立てを行います。この申し立てがあると、海難審判が始まります。

 地方海難審判庁は、審判のために必要な証拠を自分で集める事ができます。具体的には、まず

  • 船舶その他の場所を検査すること
  • 帳簿書類その他の物件の提出を命ずること
  • 公務所に対して報告又は資料の提出を命ずること

ができます。さらに、実際に審判が開廷されたら、

  • 証人に証言をさせること
  • 鑑定人に鑑定をさせること
  • 通訳人に通訳をさせること
  • 翻訳人に翻訳をさせること

ができます。

 例えばの話、船舶同士の衝突が起こりその審判をするとします。審判官の判断で、衝突した船舶を検査し、その船舶の航海日誌の提出を命じ、また造船所に設計図の提出を命じ、また気象台に当日の気象状況について照会をすることができます。実際に審判が始まれば、問題の船の船員や目撃者を呼んで証言させ、証言者が外国人で通訳が必要なら通訳人を呼び、船の構造や強度について鑑定を依頼することができるという訳です。

 これらの証拠集めは、審判に不可欠なものだという事で、強制力付きで行う事ができます。すなわち、審判庁から召喚されたのに正当な理由もなく出頭しない者や、審判庁による実地検査を妨害した者、あるいは提出を命じられた帳簿などなどの物件を提出しない者、もしくは提出書類に虚偽の記載をなした者は、過料に処されます。つまりは罰金。

 先に消防官のところで、間接強制の話をしましたが、あれと同じです。調査にやって来た審判官や職員の邪魔したら、「罰金払う事になりますよ!」と言われちゃう。それでもって相手が引き下がってくれればそれでよし、もし引き下がらないなら、その場で逮捕はできないので職員は帰るけど、後日裁判所からお呼び出しがかかるという仕組みです。

 ちなみに。その過料の額ですが、海難審判法によるとなんと「三千円」となっています。……安いですね(^^;//こんなんで実効性保てるのかとついつい心配になりますが、今のところ悪質な妨害が問題になったとは聞きません。船会社や造船所も協力的なのでしょう。まあ結構な事です。

 かような権限を持つ審判官の数ですが、やや古い数字で恐縮ですけど、平成8現在で54名となっています。海難審判庁全体でも職員総数249名という事ですから、いやー、失礼ながら、何とも小ぶりな所帯ですね。

 なお、海難審判に当たり、とりわけ専門的な判断が求められる場合、特別に参審員という人員を審判に参加させる事があります。参審員は、海難審判に必要な学識経験者の中から、各海難審判庁の長が選定します。彼らも、海難審判で原因究明を行う事から、審判官と同じ権限を持ちます。臨時任命の審判官みたいな存在です。

 こうして集めた証拠に基づき地方海難審判庁は「裁決」を下しますが、この内容に不服があれば、さらに高等海難審判庁に訴え出る事ができます。そこでの「裁決」にも不服なら、さらに東京高等裁判所に訴え出る事ができます。海難審判庁は、裁判所ちっくなところではありますが、裁判所そのものではないので、裁判でもって判断に白黒付ける事ができるのです。

 また、最初にも触れたように、海難審判の目的は海難の原因を究明することであり、その結果関係者の海技士免許を停止したり取り消したりすることもありますが、刑事罰を課す事はありません。海難を起こした責任が船員にあったとして、その業務上過失を問うのであれば、それは海難審判とは別に捜査機関と裁判所に委ねられる事になります。

 最後、治安維持話…というほどのものではないんですが。海難審判庁の調査に関するエピソードみたいなものでも。

 
主要参考資料;
『海難審判制度百年史』 監修;高等海難審判庁 刊;財団法人海難審判協会 1997

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