経済監視官等

 

 経済監視官等が設立されたのは1947年、すなわち昭和22年の5月の事です。経済監視という名前の示す通り、その任務は経済関連の取締りです。

 この当時の経済状況は本当に厳しいもので、まさしく混乱の極み、とも言うべきものでした。敗戦のその時まで、日本経済は戦時体制という事で厳格な統制下に置かれていました。敗戦後、それまでの経済統制は一旦解除されましたが、この施策は完全な失敗に終わってしまいます。自由経済に戻したはいいものの、市場に出回るべき肝心の物資が欠乏していたため、たちまち大変なインフレ状態に突入してしまったのです。戦災により物資生産は滞り、加えて昭和20年度は凶作、物価の高騰でどうしようもありません。

 とりわけ深刻だったのが食糧で、文字通り食うにも困る状況が出現しました。統制経済はなくなったとはいえ、農業者・漁業者には食糧管理法に基づく生産品供出が義務付けられていたのですけれども、これはあまり守られませんでした。生産高を偽っての供出逃れや、闇市への横流しなどが頻発し、正規のやり方では消費者に食糧が届かなくなってしまったのです。

 昭和21年、政府は金融方面に規制を加えてインフレ抑制に乗り出し、一方で経済統制を復活させ、さらにこれに対する違反行為を徹底して取り締まる事により、事態を収拾しようとします。しっかりした供出や輸入で食糧を確保し、正規の流通に乗せる。配給や適正価格販売を徹底する。そして、闇市はじめ価格高騰を誘発する活動を取り締まる。

 こうした状況下、全国の警察に、経済監視官等が配置されました。具体的には、昭和22年5月2日の勅令第204号により「都庁府県等臨時職員等設置制」(昭和11年8月28日勅令第285号)を改正、当時の警視庁と道庁・府県警察部に経済監視官・経済監視官補が置かれる事となりました。監視官等は警察官ではありませんが、経済統制に関する犯罪を捜査する権限を持っており、今でいう特別司法警察職員と同じ扱いを受けました。ただ、制服はなく、武装もありませんでした。待遇は、監視官が警部補以上相当、監視官補が巡査・巡査部長相当とされました(*)。

 ところで。勅令204号施行翌日の昭和22年5月3日は、日本国憲法と地方自治法の施行日です。特に、地方自治法の施行により地方の制度は一変し、監視官等を置くことを定めた「都庁府県等臨時職員等設置制」も廃止されてしまいます。このとき、地方自治法附則1条・7条および「地方自治法附則第七條に基く政令」(昭和22年5月3日政令第18号)にて、警察制度に関しては別に法律を定めるまで従前の例によるものとされ、これにより、監視官等は(警察と共に)旧制度のまま存続するという形になっていました。時あたかも終戦直後の変革期、法令改正の翌日には当の法令自体が廃止されてしまう中で例外扱いを受けた…という存在。時代の変わり目に生まれた制度であることがよく分かります。

 勅令第204号で置かれたのは、全国通じて監視官が1,200人、監視官補が5,800人の計7,000人です。が、この7,000名が警察にとって純増人員になった訳ではありません。早急な人員配置が求められたため、現在警察官である者を振り替え、あるいは身分併任させる形で任命する事も多かったのです。わけても幹部に相当する経済監視官は、大半が現職警察官を当てていたようです。また監視官・監視官補を新規に採用する場合にあっても、外地から引き揚げて来た警察官や、警察官の経験を有する者を選んで採用していました。採用後は警察練習所(※現在の警察学校)に入り、そこで初任教育を受けました(*)。

 ちなみに我が福岡県の場合、昭和22年6月から7月にかけて経済監視官・経済監視官補合わせて441名が、当時の福岡県警察部に採用されています。監視官補は一般採用された者も多くいましたが、監視官は、現職の警部・警部補を採用、あるいは他部署職員ないし南方から復員した警察官を採用し、一般採用はありませんでした。一般採用された監視官補は、警察練習所で1ヵ月間教育を受けた後、第一線に配属されました。配属先は、警察部の経済防犯課及び各警察署の経済防犯係です。経済防犯課においては、課直轄の捜査部隊である企画捜査係・機動捜査係・査察係の主力を占め、また経済取締重点となる警察署では、経済防犯係の中でも特別捜査班要員として活動したとのこと。(*)

 監視官・監視官補の業績について、詳しい事は分かりません。警察史の書籍などを見てみても、「闇市撲滅のために経済取締りにまい進した」くらいしか書いてありません(*)。あるいは目を転じて当時の生活を述べた思い出話などを見聞してみると、「経済警察が検問や列車の捜索などで買い出し物資を没収していた」なんて話がちらほらあります。なるほど、農業地帯に繰り出して食糧を買い入れる「買い出し」も、正規のルートによらず物資を購入する訳で経済統制への違反行為ですから、取り締まり対象です。苦しい庶民生活をさらに締め上げてしまう、という事で多分に恨み節も含んだような話ですが、裏を返せば監視官等はそれなりに職責を果たしていた、という事でしょうか。

 さて。警察内部への設置とはいえ人員7,000人を擁しかなりの規模であった経済監視官等でありますが、その歴史は短く、かなりあっけなく消滅してしまいます。

 まず、監視官等設立当時の警察は戦前からの流れを組み、東京都に警視庁、北海道及び他府県に警察部を置き、それを内務省が指揮監督するものでした。戦後の民主化の流れの中で、内務省は解体、同省で警察を担当していた警保局は消滅、警察も組織改革されますが、その過程で経済監視官等も消えて行くことになります。

 戦後の新しい警察制度を定める法として、昭和22年12月8日に「警察法」(いわゆる旧警察法)が成立します。この警察法は、附則15条において地方自治法附則1条ただし書き以下と同附則7条の削除を定めており、これにより警察の旧制度は完全に廃止、新制度へと移ります。ところで、旧制度に拠って設けられた経済監視官等についてどのような手当がなされるかは、法律上は一切未定でした。

 この点について、警察法公布前日の12月16日に内務省警保局より「警察法実施準備期間における経済警察の運営に関する件」と題する通知が警視庁保安部長・警務部長、各道府県警察部長宛に出ています。それによると、警察法上、経済取締は警察の所管となっているものの「その詳細なる取扱要領は今尚決定に至らず且つ経済安定本部立案の下に別個に設けられる予定の経済取締機構もその組織権限、警察との関係等早急に決定を見ない実情にある。」と述べられています(*)。後段の「経済安定本部〜」云々については、別項で触れますけれども、経済監視官等はこの経済安定本部と繋がりがありました。警察法が施行されれば、それまで内務省の下に集約されていた警察は、国家地方警察と市町村の自治体警察に分かれて公安委員会の監督下に入ります。こうなると、全国で統一的に経済警察活動を行なうことが難しくなるので、場合によっては経済監視官を経済安定本部に移すことも考えられていたらしい。

 しかるに、設立予定の経済取締機構なるものは未定のまま時が過ぎ、年末間近の12月29日に出た内務省警保局通達「警察法施行前の訓練期間中の警察機構並びに人事取扱いについて」(昭和22年12月29日付警保局警務発第124号)で、経済監視官等の廃止が伝えられました。「経済監視官(補)は、警察法施行と同時に廃止される予定につき夫々、本人の希望により、警察官に転官せしめる等の手続を順次とること。」(*)

 かくして、監視官等設立から10ヵ月後の昭和23年3月7日、警察法が施行され、監視官等の制度は短い生涯を閉じました。その際、監視官・監視官補は、警察官との兼任者は兼任解除、専任者の場合は、高齢者や希望退職者を除いた大半が警察官に身分を切替えました。一部には、検察事務官・海上保安官・鉄道公安官に採用された者もいたそうです(*)。

 現在、勅令「司法警察官吏及ヒ司法警察官吏ノ職務ヲ行フヘキ者ノ指定ニ関スル件」(大正12年勅令第528号)内に経済監視官・経済監視官補に関する規定が残っていますが、これはその当時の名残です。条文自体は削除されずに残っていますが、監視官等の方がなくなったため、今では意味のない空文です。

 
 
主要参考資料;
『戦後警察史』 編:警察庁警察史編さん委員会 刊:財団法人警察協会 1977
『警視庁史 昭和中編(上)』 編・刊:警視庁史編さん委員会 1978
『福岡県警察史 昭和前編』 編:福岡県警察史編さん委員会 刊:福岡県警察本部 1980

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