経済調査官

 

 先に紹介した経済監視官等と同じく、彼らも、戦後の混乱した経済状況立て直しのために置かれた人員です。

 戦後の経済がいかに混乱していたかは、経済監視官等の項で既に簡単に述べました。これを収拾するために、昭和21年以降政府は一旦撤廃した経済統制を復活させ、これの実施と違反行為の取締りでもって立て直しを図る訳ですが、その施策の一環として経済安定本部という組織が設けられました。

 経済安定本部、通称安本は、昭和21年8月に設立されました。内閣総理大臣を総裁とし、経済安定の施策を実施するための企画立案や、各官庁間の調整、また実施された施策の監査等を行いました。当初は一年限りの臨時官庁という扱いで、固有の要員もおらず、関係官庁から官僚を集めて事務運営をする体制を取っていました。しかるに昭和22年5月に設立期間の延長と組織拡充がなされ、固有の事務官・技官800名以上を擁することになり、総理大臣直属の機関として機構整備が進みます。

 この昭和22年5月の組織拡充に伴い、経済査察官という人員が置かれました。経済査察官は、経済安定本部令1条の施策(※昭和22年勅令193号による改正後の経済安定本部令1条によれば「物資の生産、配給及び消費、貿易、労務、物価、財政、金融、輸送、建設等に関する経済安定の緊急施策」)の実施に関する監査及びこれに関する経済統制の励行に関する事務を掌り、また経済統制に関する犯罪については司法警察権をもって捜査検挙しました。人員は、設置当初定員342人、同年末には定員669人まで増やされます(*)。

 経済査察官の任務中、経済統制実施に関する施策の監査はともかく、経済統制に関する犯罪の捜査検挙とはまさに経済警察とも言えるもので、先に紹介した経済監視官等と変わりません。実際、両者はあながち無縁でもなく、経済査察官が設置されたのは昭和22年5月1日、その翌日5月2日に経済監視官等が置かれています。経済監視官等は警察職員(内務省系)で、経済安定本部と直接の繋がりはありませんが、安本拡充と歩調を合わせた配置であることに加え業務内容も類似しており、特に査察官が現場であれこれ活動するに当たっては警察の監視官等と連絡を取り合いつつ動いていたようです(*)。新設の経済取締要員は査察官・監視官等あわせて7,300人余、この辺りにも当時の経済混乱のほどが伺われます。

 安本経済査察官の詳しい活動については、実はよく知らないのですけれど(調べていない、ともいう…)、犯罪の捜査というよりは法令の励行という面での活動が重要であったようにも思われます。まず、経済査察官の設置に伴って定められた経済安定本部規程・同分課規程によると、安本には総裁官房および生産局以下10の局が置かれます。この内、経済査察官と関係深いのは監査局。掌る事務は、「各庁の事務の監査に関する事項」「経済安定本部総務長官の指定する法人その他法人その他の団体の監査に関する事項」「前二号の監査に関連する経済統制の励行に関する事項」「隠退蔵物資の調査及び供出の促進に関する事項」です。監査局はさらに総務課・監査第一課・監査第二課・公団監査課・在庫品課に分かれ、総務課では取締の基本方針や他官庁との連絡調整、監査第一課・同第二課ではそれぞれ分担して官庁の経済行政・物資統制・物資輸送等の監査、公団監査課では公団等の団体の監査、そして在庫品課では隠退蔵物資の調査及び供出促進に関する事務を掌りました。また、地方支分部局として全国に8つの地方経済安定局を置き、そこにも監査部を置いて安本監査局の事務を分掌させました。

 物資の生産や流通その他について経済統制がきちんと実行されているか、一線の官庁をチェックし、特殊法人その他の団体をチェックし、さらには「隠退蔵物資」の調査と供出促進にもいそしむ。経済統制の番人よろしき存在です。最前線で経済犯罪を検挙して回る……というのとは、ちょっとイメージ違うような。しかるに、いざ関係官庁や関係団体を監査しようとしても、あるいは「隠退蔵物資」を調査しようにも、権限がないためになかなかうまく活動できなかった様子。というのも経済査察官は、司法警察権こそ持てど、行政上の監査のために、たとえば現場に臨場し、資料を検査し、関係者に質問し、報告を徴するといった権限が与えられていなかったのです。司法警察権というのはあくまで犯罪捜査のための権限ですから、行政上の監査や調査のためにこれを用いることはできません。

 このため、当時経済査察官による監査や調査は、相手方の同意を得た任意の活動に限られていました。とりわけ、溜め込まれたまま手つかずになっている旧軍関係の物資、いわゆる「隠退蔵物資」の調査に当たっては、この点がかなり足を引っ張っていた模様。まず前提として、隠退蔵物資の処分は、まず調査を行って権利関係等をはっきりさせた上で、商工省(※後の通産省、現在では経産省)が「強制買上」を行う、という手順を踏んでいたそうです(*)。隠退蔵物資の調査とは、まさに安本監査局・経済査察官の担当事務そのものであるわけなんですが、しかし担当事務ではあっても権限はなし。ということで、調査相手の同意と承諾を得ない限り、経済査察官が隠退蔵物資の調査に着手することはできなかったということです。

 そこで昭和22年8月、行政上の調査権を経済査察官にも付与しようという法案(経済査察官の臨検検査に関する法律案)が国会に提出されますが、この法案は成立しませんでした。経済統制の励行や隠退蔵物資の調査のための行政調査権ならば既に商工省や農林省の官吏に付与されているため、屋上屋を架すことになるではないか? いやそもそも担保罰則を付した間接強制による臨検検査は憲法35条に違反するのではないか? …といった疑問が与野党双方の議員から出され審議は難航(*)、法案は衆議院はどうにか通過したものの、参議院で審議未了・廃案に終わります(*)。今の世であれば、間接強制による行政調査について(行政調査のあり方についてはともかく、間接強制による行政調査の存在自体に)違憲だなんて言う人はまずいません。しかし戦後すぐのこの時代は、戦前・戦中の行政警察によほど懲りたのか、こういうことが大真面目に語られ大問題になっていました。

 ……いささか余談ですが、食うにも困るほどとにかくモノがなかった戦後すぐの時代にあって、旧軍関係の隠退蔵物資というやつはまさに宝の山。うまくさばけば大儲けもできるとあって、色々怪しい人物が跳梁するわ、怪しい話も飛び交うわ。やくざにブローカーに企業に官僚に政治家に占領軍まで加わって、まさに奇々怪々。戦後史の闇と呼んでも良いであろう、底知れぬ淵と化して行きます。当時の国会議事録を漁ってみると、なんとも胡散臭い話が出るわ出るわ。戦争に負けるとはこういうことか……と、暗澹たる気分になれること請合い。

 さてそんな経済査察官に転機が訪れるのは、昭和22年末のこと。昭和22年末にはいわゆる旧警察法が成立・公布され、同法が施行される昭和23年3月以降警察制度が一変することが確定した訳なのですが、そこで問題になったのが、全国で約7,000人もの人員を擁していた経済監視官等の扱いです。経済査察官に比べ、経済警察とも称された経済監視官等はなかなかこわもてな活動を繰り広げていたらしく、警察史の書籍などをひっくり返してみればごくわずかながらも話が載っている……とは前項でも触れた通り。けれども、昭和22年警察法には経済監視官等に関する条文はありません。古い制度に拠って設けられた経済監視官等は、このまま新警察法が施行されれば存在の根拠がなくなってしまいます。ではどうする?

 政府側としては、警察制度を変更するとしても、厳しい経済事情に鑑み、経済警察(というか、経済取締機関)をなくすことは考えていませんでした。ただ、ではどこにどのような形で引き継がせるか?という点については話がまとまっていませんでした。一方には総理庁(※後の総理府、現在の内閣府)にやらせる案があり、また経済安定本部に吸収したらどうかという案もあった模様(*)。しかるに、この話は警察制度の変更には間に合わず、最終的に経済監視官等がどういう運命を辿ったか……は、前項でも触れた通り。

 かくして、経済監視官等を引き継ぐ形での「新経済警察」は幻となったのですけれども、しかし経済取締機関の必要性そのものは引き続き認識されており、その母体と目されたのが経済安定本部監査局です。警察法施行から遅れることおよそ2カ月、昭和23年5月に至り、「経済査察庁法案」が内閣から国会に提出されました。法案の趣旨は2点。まず第一は、警察分権化によって全国一元的な経済取締が困難になったため、これを実施するための機関を設けたい。第二は、経済統制徹底のためには検挙取締りのみならず啓発・宣伝・指導・予防措置等種々の行政手段による法令励行措置を行う事も必要であるが、これを警察に任せると弊害が予想され、かつ新日本建設の精神に照らしても適当でないことから、警察とは別個にこれを担任する機関を設けたい。それがすなわち「経済査察庁」(*)。ただし、単に経済警察的な取締活動、末端のヤミ行為の摘発などをさせるのではなく、むしろヤミの根源を突くような活動をさせたい。換言すれば、実力面ではなく知能面での寄与を期待し、かつ、主は法令励行・予防啓発にあって、違反調査は従である(*)。

 この経済査察庁法案も、以前の法案と同じく審議が大層もめました。この時期の内閣といえば片山内閣と芦田内閣、与党は社会党・民主党・国民共同党。3党の内、民主党はその後色々と変遷を経た末に保守合同で自由民主党へと至る保守・中道政党ですが、社会党は革新、国民共同党は中道。どちらかというと、中道〜革新寄りという印象を受けます。対する野党の雄は吉田茂率いる「保守本流」こと日本自由党(※昭和23年3月以降は民主自由党)です。保守政党なら治安絡みの法案には結構好印象なのでは?とも思われましたがさにあらず。こちらの勝手な思い込みとは裏腹に、これらの法案の審議で示された強い反対論の中心にいたのは、他ならぬ日本自由党の議員でした。

 政争の具なのか、あるいは法案自体の出来がそもそも良くなかったのか…ともあれ法案は審議の過程ではまたも強い抵抗に遭います。結果、経済査察庁の名を「経済調査庁」と変え、経済査察官改め経済調査官の人数を減らし、調査官の権限をいじるなどかなり大掛かりな修正を経た末、8月に公布・施行されました。

 かくして成立した新法に基づき設けられたのが、経済調査庁です。内閣総理大臣の管理下に設置され、目的はずばり「経済統制を円滑に実施すること」(経済調査庁法第1条)でした。経済安定本部監査局と地方支分部局たる地方経済安定局の監査部を独立させ、大幅に拡充した官庁です。

 同庁の体制ですが、まず、政府内に中央経済調査庁を置きます。長官は国務大臣をもって任命します。全国を8つの経済調査管区に分け、それぞれに管区経済調査庁を置きます。さらにその下に、地方経済調査庁を置きます。地方経済調査庁は、都道府県を単位として置かれますが、北海道については最大4つまで置く事ができます。これにより合計49の地方庁(設立当初)が置かれます。

 経済調査庁の業務は各種ありますが、その中に、官庁が行う経済統制施策に関する監査と、経済法令違反行為の調査、も含まれていました。特に後者の調査、これは必要とあらば強制的に実施する事も可能であり、司法警察権の行使にも近いものでした。この監査・調査活動を行うため、経済調査庁には、経済調査官が置かれました。

 経済調査官は定員3,500名以内、前述の通り経済法令に関する違反事件を調査する権限を持っています。裁判所から許可状の交付を受け証票携帯の上、臨検・捜索・差押を行う事ができました。ただし、許可状の執行には一部制限があり、必ず警察官吏が同行することを要し、差押と身体に係る捜索については警察官吏のみが可能。また差押えた物件も24時間以内に警察管理に引き渡すこととされました。さらに、現行犯を除き逮捕を行う事もできず、逮捕を要する場合は裁判所から許可状(※刑事訴訟法に基づく逮捕状ではない)の交付を受け、調査に同行した警察官吏に嫌疑者の逮捕を求めることができる、という形になっていました(経済調査庁法4章)。ちなみに、武器の携帯権や制服などはありません。調査庁発足当時置かれた調査官の人数は、中央庁・8管区庁・49地方庁すべて合わせると3,424人(経済調査庁法施行令別表第1・第2・第3)、上限の98%近くで、ほぼ一杯一杯配置されているのが分かります。

 経済調査庁発足に伴い、それまで経済安定本部監査局・地方経済安定局監査部に属していた経済査察官は、そのまま中央経済調査庁・管区経済調査庁の経済調査官に横滑りしました。査察官と違い調査官は司法警察権を持ちませんが、警察官吏の同行を求めた上での臨検・捜索・差押・逮捕は可能であり、また人員規模の点から言えば定員669人→3,424人と、5倍を越える増強ぶりです。全国くまなく目を光らせる経済取締機関として、大きく変貌を遂げました。

 巨大官庁経済調査庁、そこで経済調査官がいかなる活躍をしたのか…についてですが…残念ながら、詳しい話は伝わって来ません。と申しますか、真面目に調べていません。まあ、きっと、闇市や物資横流しなんかを摘発して回ったのでしょうけれど。どんな感じで活躍したかは、今となっては不詳です。

 ところで。かく設立された経済調査庁と経済調査官は、その後いかなる経緯をたどったのか。結論から言ってしまうと、両者とも消えてなくなってしまうのですが、いつどのようになくなったのか。

 まず、設立10ヵ月後の昭和24年5月、経済調査庁は経済安定本部に外局として組み込まれます(昭和24年5月31日法律第164号・経済安定本部設置法)。経済安定化を目指す機関として、お互い別個なままでは都合が悪かったのでしょうか。ただこの時は、外局となっただけで、それ以上の変化はありませんでした。

 転機となるのは、昭和25年5月の安本組織改正です(昭和25年5月10日法律第161号・経済安定本部設置法の一部を改正する法律、同法律第162号・経済調査庁法の一部を改正する法律)。前年、経済調査庁は安本に外局として組み込まれましたが、しかるに庁の組織はそれ以前と変わらず独自に有していました。これを、今回、安本の本体と結び付きを強める方向で改める事になりました。すなわち、まず中央経済調査庁を廃止し、経済調査庁とします。続いて、地域単位で置かれていた管区経済調査庁を、同じく地域単位で置かれていた安本の地方経済安定局と合わせ、管区経済局とします。同局内に監査部・査察部という部局を置き、そこが従来管区経済調査庁が担って来た任務を担当します。地方経済調査庁は、組織を簡素化した上で地方経済調査局と改称します。

 この組織改正自体は、行政機構の簡素化の一環として行われたものでした。時あたかも、いわゆる「ドッジ・ライン」に基づく緊縮財政路線時代。昭和25年2月の時点で、、機構簡素化に伴い15%の人員削減を目指す旨の国会答弁がなされており(*)、組織改正法案が成立する直前の5月2日には、定員が3,719人から2,653人へと1,066人減、また予算額も昭和24年度の約10億から約8億に減るという見込みが出ています(*)。

 またこの組織改正に合わせて、経済調査庁の任務そのものも改められました。従来は、「経済統制を円滑に実施すること」を目的としていたのが、「経済に関する法令の円滑な運営を確保すること」を目的とする、と定められました。経済 "統制" という単語がなくなった訳です。時代は、戦災による混乱から抜け出して復興へと向かいつつあり、また経済も、徐々に統制が解除され自由経済へと移りつつありました。その流れの中で、経済調査庁が行う統制維持のための取締りは、役割を終えようとしていました。

 これ以降も経済統制の解除は進み、そうして昭和27年7月、ついに経済安定本部と経済調査庁は廃止されました。経済調査官も、同時に廃止となりました。

 経済安定本部は経済審議庁となり、長期経済計画の立案と、各官庁間の経済政策調整に当たる事となりました(昭和27年7月31日法律第263号・経済審議庁設置法、および同法律第284号・経済安定本部設置法の廃止及びこれに伴う関係法令の整理等に関する法律)。後に経済企画庁を経て、今では内閣府の一部です。経済調査庁は、経済施策の監査業務と全国に張り巡らした地方支分部局網を買われ、行政管理庁に吸収合併となりました(昭和27年7月31日法律第260号・行政管理庁設置法の一部を改正する法律)。同庁監察部を拡充して局へと押し上げ、経済施策のみならず行政活動全般を監察する事になります。後に総務庁行政監察局を経て、今では総務省行政管理局・行政評価局となっています。

 
 
主要参考資料;
『行政管理庁史』 編;行政管理庁史編集委員会 刊;行政管理庁 1984
 

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