機動隊万歳!

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 いきなり煽り調子の題名から始まりまして、どうもお騒がせしております。改めまして、我が機動隊ヲタクWeb Pageへようこそ。ここでは治安部隊という観点から見た機動隊のルーツ、装備、編成、その歩み、つまりは治安部隊としての機動隊について述べております。

 ずばり、機動隊とは何か! かつてのデモ隊から言わせれば権力側の弾圧組織であり、最近ちまたでよく目にする姿は災害救助部隊のそれであり、ものの本によれば「警備実施の中核部隊」である。昭和27年7月国家地方警察本部発の設置指令によって全国警察に設けられ、以来これまで半世紀以上、時には義理人情のかけらもない官憲となり、また時には頼れる用心棒あるいは救いの手となって来ました。幾つもの任務を帯び、様々な活動を展開して来た機動隊。しかるにその中でもとりわけ注目したく思うのが、「治安警備」であります。

 現在の日本において、機動隊が治安警備部隊としての活動を行なう機会はますます少なくなっています。かつて日本中に吹き荒れたような集団暴力の嵐はもはやありません。今の機動隊はむしろ、災害警備や、銃器対策のような捜査共助といった方面での活動が中心となりつつあるように見えます……

 しかし! 私にとっての機動隊とは、あくまで治安警備部隊! 青い出動服に身を固め、降り注ぐ投石と火炎瓶の下、大盾を揃えて隊列を組み、ラッカー塗りの警棒かざし、「喚声前」「検挙前」の号令一下デモ隊に殴りかかっていく「あの」姿なのです! 嗚呼なんと見る者の血をたぎらせる熱い姿ではありませんかッ!

 という訳で、ここでは先にも述べましたように、治安警備部隊という観点から機動隊を見ていくものであります。手前勝手で、すいませんね。

  1. その任務
  2. その装備
  3. その編成
  4. その働き
  5. その歩み

1.その任務

 機動隊の任務とは何か。それすなわち、警備実施であります。本編警備警察の項で説明した治安、災害、雑踏の各警備実施。ともかくこれに尽きます。他にも捜査共助や集団警邏のような任務を帯びてもいますが、私の感覚では、これらは添え物です。機動隊の任務は警備実施。これこそが機動隊の集団力を生かす最大の任務。これに尽きる。

 そもそも機動隊の設置の根本たる規則「機動隊設置運用基準要綱」にも、機動隊の任務は以下の通り、警備実施を中心に据えて定められています(*)。

「1 機動隊は、警備実施の中核部隊として治安警備および災害警備にあたるものとし、その他必要に応じ部隊活動により、雑踏警備、警衛警護、集団警ら、各種一せい取締り等にあたるものとする。」

機動隊設置運用基準要項 第2「機動隊の任務」

 機動隊の根幹・真髄は、まさに警備実施にあります。

2.その装備

 機動隊は出動に当たっては隊行動を取り一致団結して事案に当たる、と言いますが、何も人手をかき集めるだけが機動隊ではありません。警備実施をするに当たっては、色々な装備が必要になって来ます。そもそも相手が「暴徒」「災害」と一筋縄ではいかないようなのばかりなので、普通に制服着て出る……という訳には行きません。

 ここでは、機動隊の装備を見ていこうと思います。で、本来なら装備品はすべて余すところなく紹介するべきなんですが、趣味の関係上治安関係の装備品に限らせてもらました。すいませんね。

 さて、まずは個人装備です。一般の機動隊員の爪先から頭のてっぺんまでの話。

 長らくの間、機動隊といえば、青い出動服を着て、垂れとバイザーが特徴的な青いヘルメットをかぶって、銀色に輝くジュラルミンの盾持って出て来るのが見慣れた姿でした。しかるに平成14年・2002年6月のFIFA-W杯開催を契機として、機動隊の個人装備は大きく変化しつつあります(*)。ヘルメットが変わり、出動服の上にプロテクターを着け、盾も強化プラスチック製の透明なものに変わりました。その外見は大きく変わっています。

 その変わりつつある機動隊、一体どういった個人装備を着けているのか、見てみます。

出動靴

 編み上げの半長靴です。地方によって、警備靴とか色々と呼び方がある模様(*)。作業靴の友達みたいに考えてもらえばいいんでしょうか。

出動服上下

 出動靴が作業靴ならこちらはさしずめ作業服になります。青色に染め上げられており、別名を乱闘服ともいう、丈夫な上に防水難燃加工も施してあるすぐれもの。

 警備とあらば必ず着ていくと言ってもいいものですが、しかし「制服」ではありません。いわゆる制服は「警察官の服制に関する規則」(昭和31年国家公安委員会規則第4号)にて定めるものを指し、出動服は制服ならざる「特殊の被服」という扱いです。特殊の被服については、基本的に所轄長(※警視総監・道府県警本部長のこと)が制式を定めることになっている=都道府県警によってそれぞれ制式が違うこともあり得るのですが、出動服は例外扱いであり、警察庁が制式を定めています(*)。なるほど確かに、複数県警の警備部隊が警備現場に集結したとして、その出動服がそれぞればらばらでは困るでしょうし。

防護装備

 従来、機動隊員が身に着ける防護装備といえば、ヘルメットを除くと、金属板(ジュラルミン)を内蔵した黒革の脛当と篭手(防護手袋)、並びに上体(特に鎖骨)防護用の防護衣と防護腹当てでした。この内篭手(防護手袋)はむき出しで着けますが、脛当・腹当て・防護衣は出動服の下に着用し、外見上は目立たないものでした。

 登場時期は、脛当と篭手(防護手袋)については1960年代後半で、警視庁機動隊では昭和43年(1968)2月の米軍王子野戦病院開設反対闘争警備の頃から本格的に使用し始めた模様です(*)。また防護腹当てについては、同じく警視庁機動隊の場合、昭和46年6月の明治公園内爆弾事件を契機にこれを考案し、使用するようになったとのことです(*)。防護衣の方はよく分かりませんけれど、登場時期はこれが一番早いはず。

 これらの装備は、新式の個人装具になると文字通り一変します。新装備では、プロテクターを出動服の上から着用し、しかも全身を守るようにびっしりと着けているのが特徴です。まず、上半身を守る大きな防護ベストを着ます。背中に「POLICE」と白字のロゴが入っているのが現代風。さらに、下腹・上腕・肘・下腕・大腿部・膝・脛を守るプロテクターを着けます。これらはいずれも黒く塗られ、また軽量の新素材で作ってあるようです。金属のゴツっとした威圧感はないですが、これはこれでなかなか。

帯革

 英語で言うと「ピストル・ベルト」となります。ズボンを締めるベルトではなくて、装備品をぶら下げるためのベルトです。通常着用すると上着のすそに隠れてしまって見えません。

 従来は、警棒や手錠といった装備品をここに下げていたので、必ず着用していました。しかし新式装備では、全身にプロテクターを着けているので、装備を下げる事ができなさそうです。帯革着けてるんでしょうか。

手錠

 手錠は手錠。規制のみで検挙活動をしない事もある機動隊では、そこまで出番の多い装備でもないようです。

警棒

 警棒といえば、以前はラッカー塗りの木製警棒、一頃の機動隊はこれを得物に活躍していたものです。が、今現在警察の正式警棒は金属製の伸縮式黒塗り警棒となっており、当然、機動隊でもこれを使っています。昔ながらの木製警棒を使うのは訓練の時程度、とか。

 すぐ上で「手錠の出番は少ない」と書きましたが、こと警備という側面に限って見ると警棒は手錠以上に出番の少ない装備になっています。警棒は武器ではありませんが、相手に危害を与えるおそれのある得物ということで、集団警備に際してはその使用に厳しく制限がかけられます。

 国家公安委員会規則「警察官等警棒等使用及び取扱い規範」(平成13年11月9日国家公安委員会規則第14号)によると、警察官が部隊組織で行動する場合、警棒の使用は、緊急時を除き原則として部隊指揮官の命令によらなければなりません。この場合の使用とは、相手の制圧のため警棒を振るう事を指すのですが、実際には、抜く事も使用に準ずる行為であるとして指揮官の命令による事になっています。という訳で、通常機動隊員は、警棒を持つとしても帯革に吊ったまま、乱闘になっても命令がなければ抜きもしません。で、今の日本では、デモ隊と警備部隊の乱闘なんてもう随分起こってない訳で……。これでは出番も減ろうというものです。

マフラー

 絹のマフラーです。基本は純白ですが、部隊のシンボルカラーで染め上げるところもある(*)。格好も良いですが、絹=燃え難い、という事で顔面や首周りの火傷防止用、さらには非常の際の包帯代わりという使い方もあるそうです(*)。なるほど……しかし、絹の包帯とはなんだか勿体ない気も……

ヘルメット

 今と昔で形状も材質も激変しているとはいえ、まだ機動隊が産声を上げる前から存在している防護装備の王様です。その歴史は古い。昭和23年8月、警視庁機動隊の前身である警視庁予備隊が東宝争議の仮処分執行警備のために出動し、組合員が占拠している砧撮影所を包囲しましたが、この時既に予備隊員は鉄かぶとをかぶっています。ややつば広のちょっと特徴ある鉄かぶとで、ものの本によると、予備隊員が鉄かぶとかぶって出動したのはこの時が初なのだそうです(*)。

 その後、はっきりした時期は分かりませんが(写真から見るに、昭和35年・1960年の安保闘争警備を過ぎた辺りからでしょうか)、巷でよく見られるつばの狭いタイプのものになり、また材質もポリエステルになりました(*)。外装品も付くようになり、昭和36年5月の新島ミサイル基地反対闘争警備・政暴法反対闘争警備、昭和39年5月の日韓会談反対闘争警備などの写真には、針金を網状に組んだバイザーをヘルメットに外装した警視庁機動隊員の姿が映っています(*)。もっとも、この針金バイザーは短命で、昭和40年になると強化プラスチック製のバイザーに取って変わられました。

 さらに、1967年(昭和42年)以降いわゆる第二次安保警備が始まると、ヘルメットはさらなる進化を遂げることになります。従来のポリエステル製ヘルメットでは強度不足であったらしく、材質をポリカーボネートに変更。またヘルメットの内側に着装するライナーにも改良が加えられたそうです。また、ヘルメットをかぶっていても後方からの投石で受傷する隊員が出たことから、頚椎保護用の「垂れ」も必要に応じて取り付けられるようになりました。あれこれ取り付けたヘルメットの重さは、ライナー込みで約1.2kg(*)。ヘルメット単体は普通のものなのですが、これら外装付属品のお蔭でとても特徴的に仕上っていたものです。

 バイザー&垂れ付きという特異な外見のヘルメットは、出動服とセットで青く塗られ、機動隊のトレードマークのようなもの。ご記憶の方も多いのではないかと思います。第二次安保闘争警備以降、機動隊といえばこの姿といった感じで定着していました。

 それから時は下り、平成の世。FIFA-W杯開催を契機として導入された新式装備のヘルメットは、材質は同じポリカーボネートですが、プロテクター類と同じく色は黒、バイザーは内蔵の引き下ろし式で、そのため前頭部が出っ張って見えます。さらに「垂れ」も付いており、普通のヘルメットとは似ても似つかないまでに大きく変貌しました。

 以上、機動隊員が身に着ける装束を下から上まで、簡単にですが見てみました。これを全部身につけると、それは結構な重さになるとの事です。一昔前の第二次安保闘争警備の頃だと、後掲するジュラルミンの大盾込みで合計15kgとか(*)。確かに、昔でいう鎧兜で身を固めてるのと似たようなものですから、さもありなん……。一方、新型個人装備の方は、プラスチックを多用した結果従来のものに較べて幾分重量が減っているのだそうで、ヘルメット、プロテクター、そして後掲する強化プラスチックの盾を合わせて10.5kg(*)。結構軽量化されています。

 こうして見ると随分いろいろ身に着けているものですが、しかし、これはあくまで隊員が身に着ける基本となる装備でしかありません。基本装備の隊員をただかき集めてデモ隊にぶつけてみたところで、成果などたかが知れています。大いなる成果をあげるためには、それに見合う装備が必要、という事で、以下オプション装備を挙げてみました。

・個人携行装備

 盾です。暴徒のパンチから、蹴りから、投石から棒から機動隊員をしっかりと守ります。

 最初に盾が登場したのは、警視庁機動隊の場合ですと、昭和27年(1952)のことだそうです(当時はまだ警視庁予備隊という名前ですが)。おそらく、ここが一番早いんじゃないでしょうか。盾は木製で、二つ折り・片手持ち。小盾と称されたようです。前年(昭和26年)5月の、いわゆる血のメーデー事件の教訓に基づき考案されたそうです(*)。「トイレの蓋」なんて名前で呼ばれるくらいの代物で、正直言うと頼りなさそうなのですけれど……まあ、その当時はコレでも良かったのでしょう。あるいは、予算の関係でこれが精一杯だったのかも。この小盾を手に、機動隊は50年代の共産党による火炎瓶闘争と60年安保闘争を戦い抜きました。

 しかし昭和42年・1967年から本格化した第二次安保闘争になると、デモ隊からの投石や棒による攻撃が激しく、ちっぽけな盾ではどうにも防ぎきれません。特に、投石はかなり問題となった模様。同年10月8日のいわゆる第一次羽田事件において投石による被害が多発し、これを教訓として新たに開発されたのが、「防石大盾」あるいは単に「大盾」と呼ばれた、銀色に輝くジュラルミンの盾です。重量は約5kg。またまた警視庁機動隊を例に出しますと、昭和42年11月12日の第二次羽田事件に初登場し、それまでの木製小盾の代替装備として広まった、とのことでした。(*)

 機動隊員の護り手として極左暴力集団相手に大活躍した大盾ですが、その一方で、重量があって取り回しづらい、盾の向う側が見通しにくい(※細い覗き窓が1つ付いてるだけ)ため暴徒の不法行為を現認検挙するに不便、といった難点も指摘されていました。

 こうした難点を補うために、透明な強化プラスチックで出来た盾も登場しています。初期のものは、四角い強化プラスチックの板に取手を付けただけのような見てくれで、サイズもいささか小さ目でしたが、先に挙げた新型個人装備に併せて導入された新式の盾はかなり工夫が凝らされています。大きさと形はジュラルミンの大盾とほぼ同じ、受け流しに便なようやや湾曲しているところも同じです。前面には「POLICE」と白字のロゴが入り、この辺りにも新型の風味があります。当然ジュラルミンの盾より軽量で、重さは4.2kg(*)。また製造元企業の話によれば、一定の防弾性能もあるらしい(*)。

 オプション装備と書きましたが、警備の際にはほぼ必ず持って行きます。防護用装備なので、使うのに特段制限などはありません。……が、実際は、得物代わりに微妙な使われ方をする事もあったり。(相手抑え込むのに使ったり、さらにはこれで相手を殴るとか投げつけるとか……。ジュラルミンの大盾なんぞで殴られた日には、かなり痛い目見ること必定)

警杖

 杖、とある通り、長い棒です。警棒よりリーチが長いのは得ですが、それだけ分とり回しが効きづらいのが難点です。重要防護対象警備や検問のような "見せる" 警備の際によく用いられ、デモ規制のような乱闘のおそれがある警備には用いられません。普通の警杖は六尺棒よろしき単なる木の杖ですが、最近では金属製で先端がU字状になった「さすまた」もどきの警杖もあります。

ガス筒&ガス筒発射器

 デモ隊規制にはまるで魔法のように威力を発揮する、警棒・盾と並ぶ機動隊の "三種の神器" (?)みたいな装備です。

 ガス筒はいわゆるガス弾、ガス筒発射器はいわゆるガス銃のことなのですが、「銃」「弾」と呼んでしまうと銃刀法や警職法との関係上武器扱いされかねず、そうなると使用に差し障りがあるということで「ガス筒」「ガス筒発射器」と呼んでいるのだ……という話を聞きました。とはいえ、これはあくまで建前。警察の内部資料では、ガス筒発射器のことをふつうに「ガス銃」と呼んでいたりします。例えば、警視庁警備部が出している機動隊の部内誌『あゆみ』。これをひもとくと、当たり前のように「ガス銃」と書いている記事を目にします。正式にはあくまで「ガス筒発射器」なのでしょうけれど、ガス銃という呼び名が一般に広く使われていてなじんでいることもあり、部内の一般呼称はやはりガス銃であったようですね。

 また、「弾」という呼称もさほど神経質に忌避されているわけではないようで、警察ではなく刑事施設に関する規定になりますが、「刑事施設及び被収容者の処遇に関する規則」(平成18年5月23日法務省令第57号)には、刑事施設の規律・秩序の維持に用いられる警備用具の中に「催涙弾」「着色弾」が挙げられていました(*)。

 機動隊がいつごろからガス筒発射器を装備し始めたのか、はっきりしたことは分からないのですけれども、警視庁機動隊の場合、昭和27年の時点で既にガス筒発射器を装備しており、訓練の様子をとらえた写真が部内誌に載っています(*)。また、昭和44年12月付で群馬県警警備部が発行した内部資料『投石等規制要領 教範』に収録されている「ガス器具等操作要領」中の「ガス銃操作要領」項には、通常のガス銃(後述しますが、昭和29年に開発された2型発射器のこと)のほかに「旧型銃」があると記されており、かなり早い段階で装備が始まっているようです。

 続いて昭和29年に、2型と呼ばれるガス筒発射器が開発されました。中折れ式の単発で、射程は発射角30°でおよそ100mとの事。ただし照準器の類はなく、またライフリングなしの滑腔で、精度はよくなかったそうです。狙い撃ちなんて、そうそう出来るものではないらしい(*)。口径はいまいちはっきりしないのですが、ガス筒発射器の使用が問題になった後年の事件の判例を見ると「ガス筒は(中略)直径3.5cm」「ガス筒は(中略)外周約11.5cm、直径約3.5cm」とあります(*)。外周11.5cmといえば、円周の公式l=2πrから逆算して、直径36ないし37mm相当。というわけで、発射器の口径は37mmではないかと思います。今となってはだいぶ年代ものの装備となりつつも、年頭視閲式などのイベントで登場する発射器はいまだに2型。息の長い装備品です。

 上で挙げた群馬県警の教範で対象になっている通常のガス銃はこの2型のはずなので、その記述に従って操作法を少し見てみると、まず装填の際には銃身を折って装薬包を込めます。この銃身を折る操作で発射器が撃発状態になることから、装填時には銃身を確実に折ることが注意事項に挙げてあります。装填して銃身を閉じると自動的に安全装置がかかります。ガス筒は装薬と違って先込めで、この時はガス筒の「点火部」が下になるように、かつガス筒が確実に装薬と密着するように込めます。逆さに装填してしまうと発射してもガス筒が作動せず、またガス筒と装薬の密着が不十分だと、発射しても十分に飛んでくれません。使用時は、安全装置(安全栓)を外して引き金を引いて発射。また発射せずにガス筒を抜くときは、発射器の銃口を下に向け、滑り降りて来るガス筒を抜き取ります。次いで銃身を折って装薬包を抜き取り、最後に上方に向け空撃ちして安全確認と撃発状態の解除を行います。(*)

 ところで、2型発射器は米国のM-79グレネードランチャーを参考にして開発されたという話をInternetを中心にしばしば目にしますが、個人的にはこれは間違いではないかという気がします。M-79が開発されたのは1961年、これに対し2型が開発されたのは昭和29年(1954年)、2型の方がかなり早い。また、M-79は弾と装薬が一体になったカートリッジを使用するのに対し、2型はガス筒と装薬が別々で、ガス筒自体は先込めです。「催涙弾を発射するランチャー」を警察が見本輸入したことはある(*)ので、そのときにM-79が入ってきた可能性自体はあると思いますが、M-79を参考に発射器を開発したとまでいうのは疑問です。

 この発射器で発射されるガス筒はその名の通り「筒」で、ボール紙製、中にCN(クロロアセトフェノン)の粉末が充填してあります。またガスをばらまく方式によって「スモーク型」「パウダー型」の2種類に分類されます(*)。

 スモーク型は、発射後一定時間経つと、充填された催涙剤が燃焼して催涙ガスが発生するタイプのものです。煙を出すからスモーク。S弾ともいいます。分かりやすいですね。正式名称は「S100L型」(*)。地面に転がって催涙ガスの白い煙をしゅううっと吹き出すイメージで、普通「ガス弾」と聞けば、これを連想される方も多いでしょう。1発で広範囲にガスをまく事が出来る効率のいい弾なんですが、ガスが出尽くすまで時間がかかる、発射してからガスが噴出し始めるまでタイムラグがあるということで、慣れた相手だと投げ返してくるそうです。ただ、前掲の群馬県警の教範では、射角を大きく取って近距離の相手に対応する場合にはS弾がよい、と記してありました。

 ガス弾投げ返してくるような慣れた "玄人" 相手にも威力を発揮するのはこちら、P弾ともいうパウダー型です。そもそも催涙剤は粉末で、これを燃焼させガス状にしたものが催涙ガスになります。この粉末状催涙剤をそのまま撒いても、催涙効果に変わりはありません。パウダー型は、催涙剤のCN粉末をガス状にせずそのまま火薬を用いてぶちまけます。正式名称は「P100L型」(*)。これまた、前掲群馬県警の教範によりますと「相手方とほぼ100メートルの間をおいて射角30度で撃つと相手方の頭上で爆発し、効果的である」。

 ちなみに、ガス筒発射器が開発される前、機動隊は手投げの催涙弾を持っていました。この手投げの催涙弾、実際いつまで残っていたかは定かでありませんが、2型の発射器が開発されてからも結構後の方まで使われ続けていたようです。発射器制定から10年経った昭和38年・39年の段階でも、警視庁機動隊はなお催涙弾の手投げ訓練をやっていますし(*)、昭和44年1月のいわゆる東大安田講堂封鎖解除警備で、ヘリコプターから催涙弾を投げ落とした、という話もあります(*)。また、再三例に出した昭和44年12月付の群馬県警の教範でも、「ガス器具等操作要領」の中に「ガス筒操作要領」という項目があり、手投げのガス筒の使用方法が記してあります。

 さてこの2型発射器とS100L・P100L型ガス筒の組合せ、そこそこ効果のあるものではあるのですが、中折れ式の単発であるところから、連射は効きません。小数の発射器で多勢を相手にしなければならない時、これでは不利であり、実際昭和46年11月のいわゆる「渋谷暴動」では、機動隊の小部隊(当然、発射器もわずかな数しか持っていない)がデモ集団に襲われて殉職者を出してしまう事件も発生しました。

 この事件を教訓に開発されたのが、3型というガス筒発射器です。実用化されたのは昭和51年5月。6連発弾倉付きの半自動式発射器で、口径30mm、射程は射角30°でおよそ140mといいますから、2型に比べ口径は小さいものの、射程は長く、半自動の連射性能もあります。1発当たりの催涙効果を減らす代わりに連射性能を生かして、数で押そうという考え方。ただ、照星・照門いずれもなく、またライフリングなしの滑腔銃身であるところは2型と同じです(*)。これではまっすぐきれいに飛んでくれませんし、狙いをつけて撃つのも難しそうです。3型の開発に当たって、なぜこの辺りを改良しなかったのか、ちょっと首を傾げるところですが……ともかく、こういう事になっています。2型と違って全く表に出て来ることがなく、これを書いている当人もまだ実物を見たことは1度もない!という有様なのですが、もしかすると今では3型の方が主力を占めているのかもしれません。

 ところで、2型に比べ口径が小さくなっているところからも分かる通り、2型と3型の間でガス筒の共用はできません。3型用のガス筒は、スモーク型(M-30S)・パウダー型(M-30P)があるほか、催涙剤を充填していない「模擬筒」と呼ばれる訓練用のもの(M-30)もあります。模擬筒は訓練に用いられるほかに、警備現場で威嚇発射にも用いられます。上空に向けて模擬筒を撃って発射音を轟かせ、威嚇するという使い方です。この3型発射器用のM-30シリーズは、単なる紙筒であったS100L・P100Lに比べて幾分か「弾」っぽくなっており、筒の先端に半球状のプラスチック製 "弾頭" が付いています(*)。

 これらガス筒と発射器は、使い方によっては相手に危害が及ぶ(水平撃ち!とか)ので、その使用には厳しく制限がかけられています。警察庁訓令「催涙ガス器具の使用および取扱いに関する訓令」(昭和43年1月11日警察庁訓令第1号)によると、そもそもガス筒・発射器を現場に持ち出すためには、所轄長(※警視総監・道府県警察本部長のこと)の許可を受けなければなりません。機動隊のように部隊でこれを使用する場合は、部隊指揮官の命令によって使用するものとし、また使用前にあらかじめ警告する事を要します。

ネットガン

 個人装備更新に併せて導入された新式の装備その1。恥ずかしながら正式名称を知らず、報道でネットガンと呼ばれていたのでそう書いておきます。網を飛ばし、暴れる人間をからめ取る装備品です。配備開始は平成14年3月、発射器重量は約5kg。網の飛距離はおよそ10mあるそうですが、「間合いは相手の五メートル以内」(*)。遠くからばんばん飛ばすものではなく、寄せ来る相手に頃合い見計らって打ち、うまく相手にからんでくれれば怪我させる事なく確実に検挙できるという一品。

高圧放水銃

 個人装備更新に併せて導入された新式の装備その2。こちらも正式名称を知らず、報道では高圧放水銃と呼ばれていたのでそう書いておきます(*)。高い圧力でもって水の塊を飛ばし、それを相手に当てて倒すというものです。放水といっても、消火栓に繋いだホースのように延々水を出す訳ではありません。水と圧縮空気の入ったボンベを背負って使い、その中身が続く限り何度でも撃てます。ただし結構重く、反動も強いので、荒れた現場で機敏に使うには慣れが要りそう。水の飛距離は5〜6m程度です。

拳銃

 拳銃は警棒・制服・手帳などと同じく警察官各人に必ず貸与される装備品の一つであり、制服警察官ならこれを腰に提げて勤務するのが当たり前の姿。ですが、機動隊の場合は少し事情が違います。

 通常の制服で勤務する場合は、装備品の一つとして拳銃も携帯します。雑踏警備や、集団警らなどの活動が該当するでしょうか。しかしここで挙げたような出動服着てヘルかぶって出る、集団事件に対処するための大規模な治安警備になると、必ずしも拳銃を携帯する訳ではありません。

 すなわち。集団事件警備とは、まさに集団vs集団のぶつかり合いであり、デモ隊規制などでもみ合いになる場合もある。この場合、警察官が拳銃を携帯していると、現場のどさくさでその拳銃を奪われたりなくしたりする可能性もあり得るため、拳銃携帯の上で相手ともみ合うというのはよろしくない。また、部隊として拳銃を使用する場合があるにしても、部隊全員が拳銃を持っている必要はなく(別に、命令一下全員でつるべ撃ちしたりする訳ではないので)、一部の者が持っていればそれで事足りると考えられる。以上から、集団警備に従事する際、基本的に機動隊は拳銃を携帯しません。(*)

 実際にどの範囲の人間が拳銃を携帯するか、という問題は事前の警備検討・警備会議の場で決められるのですが、通常は指揮官のみが携帯するもののようです。部隊活動は指揮官の命令で行われ、部隊として武器を使用する場合も指揮官の命令によりますから、指揮官自身が武器を持っておくのが一番適当だ、という考え方です。(*)

 しかし、平の機動隊員には決して銃を携帯させないという訳ではなく、相手の暴力行為が激烈ならば、それに合わせて機動隊の方も装備を強化していくという事になっています。「あさま山荘事件」のように、機動隊が拳銃を装備して行動した事案も勿論あります。

 実際に集団警備の現場で武器が使用された例としては、1950年代のいわゆる火炎瓶闘争以降ですと、昭和1978年・昭和53年3月26日の成田空港開港阻止闘争警備が挙げられます(「あさま山荘」事件は、警備事件ではあっても集団事件ではないので…)。ただし、武器を使用したのは機動隊員ではなく、所轄署勤務の警察官で臨時に編成された一般部隊の制服警察官や、パトカー乗務員でした(*)。火炎瓶闘争以降、集団事件の現場で機動隊が武器を使用した例というのは、今のところはないような…

携帯消火器

 火焔瓶の使用が予想される時は、これを携帯していきます。いくら出動服が難燃加工とはいっても、燃えない訳ではありません。やはり火焔瓶の直撃を受けたら一たまりもない訳でして、そういう場合に備え携帯消火器の準備は必須です。

出動用毛布

 泊りがけの出動で用いる毛布です。大規模な警備だと宿泊場所の確保もしてもらえますが、目立たない小規模の警備や突発的な事件、路上でぶっとおし検問などとなるとそうも行きません。そういう時は、輸送車の中やそこらの地面(!!)などで、コレにくるまって眠ります。

・重装備

バリケード

 持ち運び可能な鉄パイプ製の柵です。これをただ地面に置くだけではバリケードでも何でもありませんが、これを隙間なく、重ねて並べてしかもワイヤーで結び合わせたりすると、かなり立派な障害物に変身します。下の車止めと併用すると効果は倍増!

車止め

 鉄骨を組合わせた障害物です。高さは10〜15cm程度で、車体の下部にはまり込んでぴったり止められる高さになっています。さすがにダンプのような大型車両は止められませんが、普通乗用車相手なら大丈夫。

防石ネット

 横断幕の、幕の部分が網になったもの……とでも書けばイメージ湧きますでしょうか。この "網の幕" の両端に取っ手を付けて持ったり、又は何かに結び付けたりして展張します。大体は部隊最前列の頭上に展張し、投石が降り注ぐのを防ぎます。

 かなりかさばる装備なんですが、防衛戦には非常に有効です。うまく使えば、投石は勿論のこと、飛んできた火焔瓶を捕らえて列内に落ちるのを防ぐ事もできます。

エンジンカッター

 円形の刃を持った、切断用機械。容疑者が立て篭もっているところに踏み込む時、バリケード撤去などに活躍します。私は当初、電動のこぎりのお仲間みたいなものかと思っていたんですが、「エンジン」の名が付いている通り内燃エンジンで駆動する、と教えて頂きました。いつ頃から装備化が始まったか定かではありませんが、1960年代後半の第二次安保闘争警備では大活躍。ちなみに警視庁機動隊は、マクロック(McCULLOCH)社製のものを使っていたようです(*)。

 重くてなかなかとり回し効かせづらいようですけれど、切れ味は抜群。替え刃を準備しておけば大抵のものを切る事ができます。例えば昭和44年・1969年1月の東大安田講堂封鎖解除警備の際には、堅固な鉄扉や防火シャッターの破壊に大活躍(*)。……と言っても、さすがに何でも切れる訳ではなく、例えば昭和53年3月26日に起こった成田空港開港阻止闘争の際に発生した管制室占拠事件。この時、警察は管制室に通じる部屋のドアをエンジンカッターで切って突入しようとしたものの、ついに果たせなかったということです(*)。

工作具類各種

 斧、ハンマー、鳶口、つるはし、シャベル、鉄バサミetc……。手持ちの道具です。大道具が持ち込めない場所では、これらを用い手作業でバリケードを撤去します。当たり前ですね。

・車両

輸送車

 機動隊のクルマの中では一番ポピュラーなんじゃないかと思われるのがこの輸送車。もともとは幌つきのトラックでしたが、今ではバス型になりました。いつ頃切り替わったかは定かでありませんが、天下の警視庁機動隊の場合、昭和42年に初のバス型輸送車を導入しているらしいので(*)、大体この辺りから切り替えが始まったようです。今となっては、幌つきトラックを人員輸送に使っている警察などもうないでしょう……。

 バス型の大型輸送車、マイクロバス型の小型輸送車の2種類がありますが、機動隊が主に使うのは大型輸送車になるようです。元はバスでも機動隊らしくいろいろと改造してありまして、フロント部を含め窓には投石防止用の金網がボルト付けでき、排気管はルーフまで延長パイプを延ばしてあります。勿論、警察車両らしく赤色回転灯付きです。車体塗装は、従来は概ね灰色と白を基調とした暗い塗装でしたが、近頃は青緑と白を基調とした明るい塗装となっているのが一般的です。ただし、いくら機動隊車両とはいってもあくまで「輸送車」でして、ある程度の防護措置はあるものの、前線に出す車両ではありません。

 主たる用途は隊員の輸送、機動隊の足代わりです。また、警備現場近くに駐車して待機用車両としても利用されます。一時の休憩や待機に用いられる他、警備の関係で宿舎まで戻る時間がなかったり、そもそも宿舎の手配がしてもらえなかった時などは、車内で寝泊りすることもあるとか……(個人装備の「出動用毛布」のとこでも書きましたね)。なお、大型輸送車1台で大体1個小隊30人が運べるという話。

警備車

 前線に出てどんぱちやる車両は、こちら。正式名称は警備車ですが、装甲を施した車両ですから、つまりは装甲車ですね。窓という窓は全て塞がれ、フロント部も電動で下から装甲板がせり上がるか、あるいは装甲板を手で外付けする形になっています。この場合、運転は装甲板に開けられた細長い小窓を通して行います。足周りについても、覆いをつけるか特殊なタイヤを用いるかして、パンクなどで行動に支障を来さないように処置してあります。

 警備警察の装甲車両は昭和20年代半ばには既に存在しており、具体的にはルーフにスピーカーを付けた「広報車」と呼ばれる車両だったようです。写真を見ると、ジープか4輪の小型トラックに装甲の箱をかぶせたような車で、輸送の機能はなさそう(*)。今日よく見るような輸送車兼用の警備車が登場するようになったのは、昭和20年代後半ないし昭和30年代になってからのようです(*)。

 ただ、警備車があるといっても、実際に第一線でどの程度活躍したのか……についてはよく分かりません。例えば60年安保警備の写真など見ても、デモ隊の阻止に使われているのは幌付きトラックだったりで、装甲車両の姿はほとんど見かけませんし。当時の写真なんかを見る範囲では、警備車が出張ってくるようになるのは昭和36年(1961)〜37年(1962)以降のことらしい(と言っても警視庁機動隊限定で、地方の機動隊になるとさらに遅れるでしょうけれど)。

 さてこの警備車、通常のものは普通鋼板を用いて装甲を施し、厚みも大したことはありません。これで耐えられるのは、せいぜい火炎瓶や投石程度。よって時代が下ると、銃弾が飛び交うような事件でも出動できるよう防弾鋼板を用いて手厚く装甲された「特型」「大型」などと呼ばれる警備車も登場するようになります。こちらは、輸送車仕様の車両の他、一部に純粋な装甲車両として設計された車両も存在します。通常の警備車は全国の警察に配備されていますが、「特型」や「大型」はそうあちこちにあるものではないらしい。またこの他、輸送車や装甲の薄い警備車の人員搭乗部外側に防弾鋼板を張り付けて限定的ながら防弾能力を持たせた「防爆型」と呼ばれる警備車もあります。防弾と呼ばずわざわざ防爆と言っているのは、その方がソフトなイメージを与えるからだそうです(*)。(個人的には、そうは思えないんですけれども)

指揮官車

 コマンドカー、ともいいます。一般的な指揮官車は、4輪駆動車の窓を金網で塞ぎ、ルーフの上に人が乗れるやぐらを載せ、大型の拡声装置を備えるという仕様になっていますが、車体を装甲で覆った警備車仕様のものもあります。

 主に治安警備実施の際に出動し、その高性能な拡声器を使ってデモ隊に警告を与える、乃至機動隊に指示を飛ばすという使われ方をします。

遊撃車

 小型輸送車の友達、と考えてもらえればよろしいかと。マイクロバスやワゴン車に赤色回転灯を付け、窓に金網をボルト留めする細工を施し、機動隊マークを付けて警察無線を載せれば出来上がり。(ほんとか?)

 少人数で目立たないように警備を行う場合に用いられるとの事ですが、それ以外にも小型の輸送車か護送車のような使われ方もします。比較的小型車両なだけに見た目の威圧感も小さく、しかも小回りが効く車両ということで使い勝手がいいみたいですね。

放水車

 読んで字の如く、放水するための車両です。催涙ガスと並び、荒れ場における警備実施には欠かせません。いつ・どこの警察が一番最初に放水車を装備したのかは定かでありませんけれども、警視庁機動隊の場合、昭和26年頃には既に放水車を装備済みだったようです(*)。もっとも、報道写真なんかを見る限りでは、初めの頃はほとんど姿を現しませんが……。

 初期の車両はあまり防備に気を使ってなさそうな感じですが、昭和30年頃には警備車仕様の車両(放水警備車)が登場します(*)。前線に出る車両なので、今では装甲ありの放水警備車が中心です。その他にも、消防で使っているタイプのポンプ車に警察向けの擬装(例えば運転席の周囲に金網を張る等)を施した高圧放水車と呼ばれる車両や、一回り小型で機動性を増した遊撃放水車という車両もあります。いずれも車体内には大型の水槽を備え、消火栓から水が引けなくともある程度までなら自力で放水が可能です。古いものは放水銃に人が取り付いて人力操作していましたが、最近では車内からの遠隔操作もある程度可能になった模様。

 警備力を強化する重要な車両ですが、複雑な装置を積んでいる上鈍重な車両なので小回りが効かないのが難点です。しかし、ある程度開けた場所でデモ隊と真っ正面からぶつかり合う時には、その力を遺憾なく発揮してくれるでしょう。暴徒に水ぶっかけて目を覚まさせたり、デモ隊の足元狙って高圧放水し前進を止めたり、時には色水を放水して後々の検挙に役立てたり(色水をかぶっている→お前デモ隊の中で暴れてただろ?)……といった使い方が普通ですが、圧力を高めてバリケードの撤去にも利用されます。

キッチンカー

 機動隊員も人の子、腹が減っては戦はできぬ。通常、治安警備といえども弁当は業者に頼むものなんですが、緊急時はそうもいきません。そういう場合、現場に出動して機動隊員に温食を支給するのがキッチンカーです。導入時期は、またまた警視庁機動隊を例に出すと、昭和40年であるとか(*)。

トイレカー

 食ったら出すのが自然の摂理、という事で、キッチンカーがあるならトイレカーもあります。機動隊員が警備現場で立ち小に野糞など、不衛生もさることながら恥さらし以外の何物でもない……という事なんでしょうか!? この車両の導入時期はよく分かりません。

     さて、こうした機動隊車両については、参考となり得る写真が若干あります。画像を張り込んである関係上少々重いので、写真コーナーとして別ページにしてあります。興味おありな方は、御覧になってみて下さい。

 細かく分けて見ていけばそれこそきりがないですが、ざっと見てみればこんなもんです。これらの装備はいずれも1950年代・60年代・70年代と続いた治安警備実施の経験と試行錯誤の中から生まれたものです。1970年代後半にはこうした装備体系と警備戦術がほぼ定まり、そこいらの暴徒やデモ隊などものの数ではなくなりました。

 しかしこれは、裏返してみるならば、初期〜中期の頃はまだ装備や戦術が不完全であった事を意味します。例えば1960年の安保闘争・三井三池闘争の頃の警備装備を見てみると

  • 服装は出動服に出動靴、ヘルメットはフラットなものが主流で、顔面保護用のバイザーもまだないような。盾は、片手持ちの木製小盾くらい。小回り取り回しは効くが、防護性は今一つ。
  • これといった防護装備がないため、激しい投石や乱闘になると受傷者が続出した。
  • 出動服は化学繊維製で、難燃加工がなされておらず、火焔瓶の炎を浴びると溶けて火傷が余計ひどくなるという話。
  • 車両といえば、輸送用の幌付きトラックが中心。足にはなっても警備実施の足しにはならず。放水車も警備車も(なくはないが)満足な数ではなかったらしい。
  • 60年安保のニュース映像なんかを見ると、消火栓にホースを繋いで放水している。放水車からではない…

と、こういった具合です。何となればこの時代、機動隊は集団の力を頼んでデモ隊に正面からぶつかって蹴散らすという戦術が基本で、警棒を使った白兵戦で何とかしようとしていた模様(*)。その意気やよしと言えども、これは余り賢い方法とは言えません。

 さらにその前の50年代となると、防護装備はヘルメットだけ、1952年以前は盾さえもなかったりします。ちょうどその時期は、共産党による武装闘争 "火焔瓶闘争" で大荒れした時代ですが、警棒だけではどうにもならず、警備部隊が拳銃を使用して鎮圧する事も1度ならずありました。

 きちんとした装備がないと武器に頼らざるを得ないところが出てくる訳で、これはよろしくない傾向です。放水車があれば、暴動が起こっても水ぶっかけて追い散らす事ができます。催涙ガスがあれば、これを撃ち込んで追い散らすことができます。でも放水車や催涙ガスがなければ、警棒で殴って追い散らしたり、さらには銃で撃って追い散らすなんて事しないといけなくなります。武器の代わりに使える装備があれば、それを使うに越した事はなし。

3.その編成

 日本にいる警察官、全部で約23万人。その中で「機動隊員」と呼ばれる人は、各種合わせて3万人に上るとも言われます。とはいえ、先に「各種」と付けたように、この3万人の警察官が皆同じ機動隊員である訳ではありません。

 機動隊の種類は、次の3つに分類されます。

  1. 機動隊

     いわゆる機動隊です。警察庁から通達された「機動隊設置運用基準要綱」に基づいて設置されている、常設の警備部隊です。全国の都道府県警察本部の警備部に所属しており、警備実施の中核として活躍してきました。警備の中核という事で「基幹部隊」と呼ばれています。

  2. 第二機動隊

     昭和41年に出された警察庁警備局通達「第二機動隊の設置について」(昭和41年6月28日警察庁乙備発第2号)に基づいて設置されている部隊です。基幹部隊と区別するために「第二機動隊」と呼ばれています。

     一般の機動隊が常設の部隊なのに対し、こちらは平時は人員が配置されておらず、訓練時・出動時のみ人員が配置されるパートタイム部隊である、という違いがあります。隊員は、普段は自分が本来所属する部署で勤務しており、部隊訓練の時や出動の際にのみ召集される仕組みになっています(*)。

     常設部隊に比べて維持運営費が安くつくため、特に予算の少ない地方の警察においては警備上重要な位置を占めています。ただ、パートタイムですから本職と比べるとどうしても練度や装備が劣るため、あまり高等な真似はできません。

  3. 管区機動隊

     上記2部隊は各都道府県警察に所属する部隊でしたが、こちらは少し特殊な部隊です。日本の各地域には、警察庁の地方支分部局たる管区警察局が設置してあり、管下各警察本部間の連絡、調整、とりまとめに当たっています。この管区を単位として、複数の府県警部隊を合わせて部隊編成(連合編成)を行う機動隊が管区機動隊です。昭和44年、都道府県の壁を越えての応援部隊派遣・活動を容易ならしめるために創設されました。

     なお、北海道には管区制が導入されていないので、北海道警察警備隊という部隊が特別に設けられており、管機と同じ扱いを受けています(*)。同じく管区制が導入されていない東京都の警視庁には、管機相当の部隊はありません。しかし警視庁の場合、基幹部隊自体が数も出動回数もやたらと多いですから、充分管機の代わりを果たしていると言えるでしょう。

     管機隊員の籍はそれぞれの警察にあって普段は通常業務(主に地域警察任務)についており、訓練や出動の際にのみ部隊編成されます。とこう書くと上記第二機動隊と同じように見えますが、域外出動も視野に入れた部隊のため、年2回の管区警察学校での合同訓練はじめ訓練時間を多めにとってあるのが特徴です(*)。基幹部隊と合同で活動する事も多い高練度な部隊で、単なるパートタイマーではありません。

     各警察に対する管機要員の割り当ては、その警察の規模に応じて様々です。2〜3個小隊程度という小ぢんまりしたところから、大は1個大隊以上まで。かつ、これらの隊員は、普段から部隊としてある程度まとめてあります。このまとめ方もまた、地方によって様々です。基幹部隊たる機動隊と一緒にしていたり、または警ら部隊として活動させていたり、あるいは同じ警ら部隊でも警察本部にまとめて置くか、警察署にばらして置くか。それぞれ地元の事情を汲んであれこれ工夫をこらしてあります(細かくは後記)。

     かように普段から隊員をある程度固めておけば、お互い顔見知りになって部隊行動が取りやすいでしょうし、また訓練も容易に行う事ができます。で、いざという時にはこれらの部隊がさっと管機に衣替えするという仕組みです。なお、この管機、本来はよその自治体への応援派遣を主眼として設置された部隊だとはいえ、当該道府県警察独自の判断で地元の警備事件に動員される事ももちろんあります。

 狭い意味で機動隊といえば、上の3種類の部隊の事を指します。…ところで、管機の項目でちらりと触れた「連合編成」。これを、機動隊の枠組みを維持しつつ基幹部隊や第二機動隊にも適用する、少し特殊な部隊編成もあります。連合編成には2種類あり、一つは、管機と同様に管区単位で複数の警察の基幹部隊もしくは第二機動隊同士を組み合わせ、一部隊を作るというものです。基幹部隊同士の連合編成なら、管区名を冠して「連合機動隊」もしくは「連合県機動隊」と呼びます。二機同士の連合編成なら、同じく管区名を冠して「第二機動隊」「第二機動隊連合」と呼びます(*)。例えば、九州各県の基幹部隊の連合編成なら「九州連合県機動隊」、二機の連合編成なら「九州第二機動隊」という感じで。平成に入った辺りから見られるようになった、比較的新しい手法です。ただ、あまり広く使われているわけではなさそう。基幹部隊にしても二機にしても、県境をまたいでよその警察の部隊と組み合わせて一部隊を編成することを前提にした管機とは違いますからね…

 もう一つは、同じ警察の基幹部隊と第二機動隊を組み合わせて一部隊を作るというものです。こちらは、警察名を冠して「連合機動隊」と呼びます。例えば、福岡県警の連合機動隊であれば福岡県警察連合機動隊。これも比較的新しい手法らしい。東日本大震災での災害警備(*)、東京五輪での治安警備(*)といった事例があります。なお、よその警察との間で基幹部隊と二機を組み合わせる連合編成(福岡県機+佐賀二機の連合編成とか)を行った例というのは聞いたことがありません。

 基幹部隊に二機・管機、この3種類の部隊すべて合わせれば人員規模はなかなかのものです。例えば第二次安保闘争や成田闘争の激しかった昭和44年〜47年頃の数字を挙げてみると、以下のようになっています(*)。

  • 機動隊   人員9,700名
    • 警視庁:5,137名
    • 神奈川:520名
    • 愛知:200名
    • 京都:181名
    • 大阪:882名
    • 兵庫:181名
    • 福岡:342名
  • 第二機動隊 人員15,784名
  • 管区機動隊 人員4,210名
    • 北海道警察警備隊:220名
    • 東北管区機動隊:330名
    • 関東管区機動隊:1,023名
    • 中部管区機動隊:635名
    • 近畿管区機動隊:1,000名
    • 中国管区機動隊:330名
    • 四国管区機動隊:150名
    • 九州管区機動隊:522名

 基幹部隊、第二機動隊、それに管区機動隊まで併せて計約3万!を号する大警備部隊。大したものです。ただし付言しますと、これはあくまで最盛期の数字であって、今では少し中身が変わっています。平成13年の時点で、基幹部隊と管区機動隊あわせて約1万2千、ここに第二機動隊あわせて約3万という数字が出ています(*)。さらに時代が下り平成26年12月の時点で、基幹部隊は約8,000人体制、管区機動隊は約4,000人体制とのこと(第二機動隊の規模は不明)(*)。昭和47年に沖縄が復帰し、沖縄県警にも機動隊はありますから総数はむしろ増えそうなものですが、そうはなっていません。逆に、基幹部隊が計2千弱ほど減っています。……まあ、かつてに比べ集団事件は起こらなくなり、治安警備に出た機動隊がデモ隊と衝突する事もなくなっていますから、それを考えればむしろ多少減るくらいがちょうどいい、という事らしい(*)。

 さて、ここまでは、狭い意味での機動隊の話でした。しかるに、これ以外にも「機動隊のような」部隊が警察には存在しています。

  1. 成田国際空港警備隊

     千葉県警に所属する部隊で、名前の通り成田空港の警備を専門に行なっている部隊です。成田空港は日本の玄関、という空港の重要性に加え、空港設置の過程で地元の空港反対派及び極左過激派による激しい反対運動(成田闘争)があったことから、昭和53年(1978年)7月に創設されました。通称空警隊。空警隊長の下に総務室・警備室、および大隊規模の空港機動隊(空機隊)を置き、定員は設置当初3個大隊478名。これが翌昭和54年3月に3個大隊増設されて6個大隊1,200名になり、さらに昭和55年2月に300名増員されて1,500名体制となりました。その後しばらく1,500名体制が続いていたのですけれど、近年規模が縮小されて令和4年(2022年)9月の時点では750名になっています(*)。考えてみれば、今では成田闘争も沈静化しましたからね…それにしても半減とはなかなか。

     空港警備専任という点も特殊ながら、さらに特殊なのはこの部隊が置かれている法的位置です。警察法施行令を見ると、その附則中に「千葉県警察に関する特例」という項目が設けられており、そこには千葉県警と空警隊に関する特例が幾つか列挙してあります。すなわち、空警隊は千葉県警に所属していますが、所属する警察官の給与や被服など人件費は全額国費で賄ってもらえる。本来ならば、警察法37条・警察法施行令3条により、都道府県警察に属する職員の人件費は都道府県の自弁であることが原則です。しかるに千葉県警の空港警備隊については、その特殊性に鑑み、警察法施行令附則24条により、人件費は全額国庫補助となっている。これはただごとではありません。(*)

     また、空警隊の要員は千葉県警が自ら手間をかけて1,500人/750人かき集める必要はなく、かなりの部分は全国の警察から集められています。例えば空警隊設立から間もない昭和53年の段階で、空警隊の定員1,300名の内約500名は、警視庁機動隊からの100名をはじめとして、沖縄を除く45都道府県警から千葉県警へ出向してきた警察官で占められていました(*)。千葉県警に所属してはいるけれど、千葉県警の部隊だとは言いきれないところもある、そんな部隊です。

     我が地元福岡からも警察官が出向していて、かつて昭和50年代には第三空港機動隊(三空機)に、地元千葉の警察官および大阪・京都・兵庫県警と並んで福岡県警からの出向者が所属していました(*)。ちょっと珍しいところでは、平成19年(2007年)の時点で、皇宮警察から空警隊に出向した人がいる/いたそうです(*)。皇宮警察の皇宮護衛官は警察官ではないけれど、なるほど警察庁所属の同じ警察職員ではある… なお、どこからの出向者がどの部隊に所属するかというのは必ずしも固定ではなく、時代によって変化があります。1970年代後半から80年代にかけて三空機所属だった福岡県警からの出向者は、その後、2012年の時点では青森・警視庁・長野・石川・兵庫・鳥取・香川・沖縄県警と並んで四空機所属だったといいます(*)。同じく四空機の沖縄県警は、上記の通り1970年代後半の時点では空警隊への出向はありませんでした。さらに2007年の時点で三空機には、1970年代後半ごろはよその所属だった神奈川県警が加わっている(*)等々、時代が下るにつれいろいろ変化が見られます。Internet上には、各警察からの出向者がどの空港機動隊に所属するかの一覧表も出回っていてなかなか興味深いのですが、最初からああだったわけではなく、今後もあれで固定とは限らず、どの資料から出てきたいつごろの話なのか、ちょっと注意が要る。

     余談ながらこの空警隊、もともとは「新東京国際空港警備隊」という名前でしたが、平成17年4月に、新東京国際空港が「成田国際空港」と名前を変えたのに合わせて「成田国際空港警備隊」と改名しています。

  2. 総理大臣官邸警備隊

     味も素っ気もない部隊名が示します通り、首相官邸警備を専門に行う部隊です。平成14年4月に官邸が建て替えられたのに合わせて発足しました(*)。とても新しい部隊ですが、その一方今時珍しい(?)まっとうな意味での警備部隊であります。

     所属は警視庁警備部警護課。機動隊やSAT経験者も含むおよそ100人の隊員から成る部隊で、テロに備えて化学防護服やサブマシンガンも装備しているといいます(*)。一部中小の警察機動隊の中には規模や装備面において同部隊を下回るものもある、と書けば、ただならぬ部隊だと分かって頂けることでしょう。地方の一県全域を守る機動隊の方が、官邸のみを守る警備隊よりも小さいということがある訳で…

     同部隊が発足する前、首相官邸は所轄の警視庁麹町警察署が60人体制で警備していました(*)。しかるに、本部隊の編成により、官邸警備は警視庁警備部が直接責任を負って行うこととなった訳です。これまで所轄に任せていたところ、この時期になってわざわざ専門部隊を編成してまで警視庁御大が乗り出す理由が奈辺にあるのか、実はいまいち分からなかったりもするのですが…… でもまあ、一国の首相を警備するのに警視庁が直接責任を負うというのは、悪い話ではないと思うので。いいんではないでしょうか。

 このように、一口に機動隊と言ってもその中身は均一ではありません。こういった各種の特徴ある部隊が各都道府県警の警備部に置かれている訳ですが、その一般的な設置状況は以下の通りです。

  • 常設の基幹部隊たる機動隊1隊。規模は様々。
  • 第二機動隊1隊。やはり、規模は様々。
  • 管区警察局より割り当てられた管区機動隊の要員。

 無論、これはあくまで一般的な姿であって、例外もあります。神奈川や大阪など規模の大きな警察になると、基幹部隊が複数あって「第二機動隊」という名称が紛らわしいことから、第二機動隊のことを「特別機動隊」などと呼んでいる、といった違いがあります。かと思えば、基幹部隊が1隊しかなくとも、第二機動隊の名称を使わず別の名前で呼んでいるところもあったり…(*)。また、ところによっては警察学校の生徒から成る「第三機動隊」を持っている警察もあります(*)。

 例えば各都道府県警の中で最も大所帯な機動隊を抱える警視庁の場合、機動隊は、第一機動隊から第九機動隊までと特科車両隊の計10隊があります。また、同じく常設の部隊として、機動隊とは別に官邸警備隊があります。かつ、警視庁は管下を9つの方面に分けており、各方面に第二機動隊たる方面機動隊を編成しています。警察学校生徒で編成する部隊も存在し、「学校部隊」と呼ばれるらしい。ただし管機該当の部隊は、前述のように警視庁にはありません。

 次に、こういった警備部隊の編成の内容について見てみましょう。細かい編制は各都道府県警察によって違うものなのですけれど、しかし一応決まった形式があり、「警備実施要則」(昭和38年11月14日国家公安委員会規則第3号)に基準が定めてあります。

一般部隊の単位は、連隊、大隊、中隊、小隊および分隊とし、その編成は、おおむね次の各号に掲げるところによる。
 一 連隊は、連隊長および大隊三をもつて編成する。
 二 大隊は、大隊長および中隊三をもつて編成する。
 三 中隊は、中隊長および小隊三をもつて編成する。
 四 小隊は、小隊長および分隊三をもつて編成する。
 五 分隊は、分隊長以下十一人をもつて編成する。
2 連隊をこえる一般部隊の単位およびその編成は、警察庁等の長が必要によりそのつど定める。

警備実施要則 第9条

 こうして見ると何やら軍隊組織のようです。一致団結した隊行動を取るに当たっては、こういった軍隊式の編成の方が都合がいいんでしょう。あと、他県への応援派遣などでよそに行くことの多い機動隊のこと、あちらとこちらで編制がちぐはぐでは、よその部隊と合同で活動する際に支障が出ます。その辺りも考慮して、一応の決め事がしてあるわけです。

 とはいえ、先にも書いた通り、これはあくまで原則です。実際これと寸分違わずきっちり合う形で部隊を編成しているところなんて、そうそうありはしません。1個分隊の人数は隊長以下5人であったり8人であったり11人であったり「基準によりがたいときは、実情に応じた編成」になっていたり。分隊より上の部隊も、小隊を編成する分隊数は一方で2個、他方で3個。中隊を編成する小隊数は原則3個と称しつつ実際は2個のところが多かったり。また一口に大隊といっても、人数や中隊数は一様ではなし。現地の事情次第で、「警備実施要則」の中身と実際の編成とはあちこち違って来ます。

 分隊、小隊、中隊……という積み上げ単位の名称こそ変わらないものの、数字の方はかなりまちまち。地方によってかなりバラエティ豊かなので、細かい具体例は別項にて。また、上で後記するとしていた管機部隊の編成内容も、ここで併せて取り上げています(分かる範囲で、ですが)。

 ちなみに、我らが福岡県警が有する機動隊の編制についてはこちら

 それにしても。ちゃんと国が基準を定めているのに、都道府県によって内容がまちまちになってしまうのはなぜか。これは、日本の警察が都道府県別に独立した自治体警察の形式を取っているところに由来します。

 警察法上、各都道府県警察に機動隊を設置することが義務付けられている訳ではありません。警察法5条・17条に基づき、「警察行政に関する調整に関する事」の一として警察庁が各警察に機動隊の設置を通達し、それに各警察が従っているという仕組みになっています。具体的には、警察法5条・17条に基づき、警察庁次長名で各警察宛に機動隊の設置を指令し運用基準を定める通達を出す(昭和37年10月13日付乙備発第5号「機動隊の運営について」)。しかる後に、警備局長名で各警察宛に機動隊の定員基準を定める通達を出す(昭和37年10月13日付丙備一発第20号「「機動隊の運営について」の運用上の留意事項について」)。これを受けて、まず次長通達で示された基準に沿う形で各都道府県公安委員会が機動隊を設置する旨の規則を定め、定員については局長通達の基準内で警察本部長・警視総監が訓令等を出している(*)。

 とはいえ、先にも述べた通り、警察法上、各都道府県に機動隊を設置することが義務付けられている訳ではありません。設置は、あくまで、警察行政に関する調整の一環として行われているもの。よって地方の実情次第では所要の「調整」が行われ、「警備実施要則」は基準としてありつつもこれと異なる編成がなされる場合もある。分隊・小隊・中隊と名称こそ同じでも、あちらとこちらで中身が違う、ということもあって当然。千篇一律びしっと決められたものではない訳です。

4.その働き

 機動隊の戦術、とでも申しましょうか。そういう話です。ただ戦術と言っても、軍隊みたいにランカスターの方程式が云々といった理路整然とした話は、できません。なぜなら……機密事項に触れるから口止めされてる、などという事ではなく、単にろくに調べなかったから。

 治安警備部隊たる機動隊が主な相手に想定しているのは暴徒、ないし暴徒化のおそれのある群衆です。主たる目的は事態の予防、鎮圧、そして被疑者の検挙。ただし、実力行使の度合は相手の暴力・抵抗の程度に合わせた最低限のものにとどめ、いやしくも警察である以上相手の殺傷が目的ではない……と。こうして見ると、その行動内容は軍隊とは随分違います。当然、その戦術も機動隊独特のものです。

 もっとも、最近では機動隊が暴動鎮圧に出るなんて状況はとんと聞かなくなりましたから、こういう暴徒相手の訓練は減っていく一方、という事です。それよりはむしろ、人質立てこもり対策だとか、銃器対策だとか、高度な活動技能を獲得するレンジャーだとか、ここでは露ほども触れなかった(決して不要だと言っている訳ではない!)災害警備だとか、そういった機能別に隊を編成し、訓練も主としてこうした機能別で行なわれているそうです。時代が変われば機動隊も変わる……と。

 しかし。ここではページの主旨上そのような事情は一切勘案致しませず、集団暴力鎮圧部隊としての機動隊にとことん焦点を合わせていきたいと考えています!

・事前措置

 コトが起こってしまってから、群衆が暴れ始めてからおっとり刀で駆け付けるというのは、あまり賢いやり方とは言えません。不法行為の発生が予測される場合においては、事前に手を打って犯罪防止に努めるのが賢いやり方。そういった事前措置には、

  • 活発な広報活動
  • 主要箇所における検問・巡察
  • 重要防護対象(重防対象と略する)・犯罪発生予想箇所等に対する部隊配備

といったものがあります。

 最近では群衆犯罪がどうの、という形での事前措置や機動隊の出動は、ついぞ目にしなくなりました。がその代わり、例えば国賓・公賓の来日や国際会議の開催に際して、こういった形(場合によってはそれ以上)の事前措置がよく見られますね。

  • 重防対象の警備に当たっては、直接警備するほか、デモ隊・不審者の接近などを早期に察知するため近辺の動静を監視する部隊員もしくは小部隊の前方配備を行う(触角配置)。特務と呼ばれる私服要員を触角配置に当てるケースもあり。
  • 重防対象の周辺地域では「エリア警戒」「エリア対策」と呼ばれるパトロール活動を実施。車両を用いるほか、徒歩でも行う(遊動と称する)
  • エリア内の危険箇所(武器類の隠匿、過激派の潜伏等に使われやすそうな場所)の検索は特に念入りに、反復して行う
  • エリア対策の一環として遊撃車を繰り出し随所で検問。エリア内への自動車乗り入れは制限。場所によっては検問地点に自動二輪警備部隊(警視庁機動隊で謂うところのMAP)を配備し、不審車両の追跡に当てる
  • 検問は、幹線道路に検問所を設けて走行中の自動車を路上で停める、もしくは停止場所へ誘導して行う伝統的なやり方のほか、平成に入ってからは、赤信号による自然停止時間を利用して職務質問とトランク内等の検索を行う「シグナル検問」と呼ばれる手法も導入されるようになった。
  • パレードコース沿線や重防対象近辺の駐車場・パーキングメーターは閉鎖、路駐車はことごとくレッカー移動、マンホールは封印、ゴミ箱も撤去。(爆発物対策)
  • 重防対象等を見下ろす高所には監視班を配置し、場合によっては隣接するビルの入居者に「協力」を求めることも。(狙撃対策)
  • 犯罪の事前抑止、不審者のあぶり出しを目指した「邀撃」と呼ばれる積極的な職務質問。無線機やカメラ持ってうろついているとそれこそ嵐のように。
  • 上空には勿論ヘリ

 まあ、爆弾その他のテロ行為で賓客に怪我させたりイベントぶち壊しになっては面目まるつぶれ……ですから……とはいうものの、厳しい。

 さて、話を群衆犯罪に戻しましょう。大体デモやら集会やらといったものは、各自治体毎に制定されている公安条例によって事前の届出が義務付けられているのが常です。こういったデモや集会の届出があった時、不法行為の発生が予測される場合にはあらかじめ機動隊を出して警戒に当たるというのが、典型的な事前措置の姿です。

 集会においては、集会場入口で検問、所持品検査。デモにおいては機動隊をデモ隊と並列行進させ、さらに指揮車を出してコースや交差点通行に際して適時指示を発し、違法行為の予防と事態発生に際しての速やかな鎮圧に努める。コース付近の重要施設にはあらかじめ警備部隊を張り付けておき、抗議に名を借りた不法侵入を防止する。集会にせよデモにせよ、相手方集団中には私服員を投入し、情報収集や違反者の検挙に当たらせる……具体的にはこんなところ。

 このような事前の措置にもかかわらず、あるいは予想外の暴力行為や無届のデモ・集会等で群衆犯罪がなされると、いよいよ実力行使の出番です。

・実力行使

 多衆集合して解散せず、さらには違法行為し放題。かくなる上は、弾圧と呼ばれようと何だろうと、機動隊がその警備力を十全に発揮せねばなりません。とはいえ、十全に発揮といっても全力攻撃!という訳ではなく、相手の違法行為や抵抗の程度に応じ、合理的に必要な最小限度の実力の行使……という、いわゆる警察比例の原則もまた守らなければなりません。これはなかなか容易でない。

 計画的なものであれ無計画なものであれ、群れ集った人間が集団で違法行為に及ぶとなると、それだけで既に通常の警察の手には負い難いものです。興奮して手に手に棒や石を持ってる群衆なんて、指揮する者がいなくったって十分危険です。まして、計画的・組織的に行われる暴力デモともなれば。そこで出動するのが機動隊であり、こちらも又集団の力でもって事態鎮圧に努めます。

 警察である以上事態の鎮圧のみならず犯罪者を検挙するのも仕事の内ですが、事態が事態だけにまずもって鎮圧し被害拡大を抑えるのが先です。そのためには特殊な技術を必要とします。そういった鎮圧技術として、ものの本には次のような手法が挙げてあります(*)。

  1. 勢力分散

    相手集団の中に警備部隊を割り込ませこれを分断し、もって集団力を減殺する。

  2. 排除

    現場から相手集団を排除する。例えば、道路上で気勢を上げる集団を、交通に支障の出ない別な場所に排除する等。

  3. 統制破壊

    発煙筒・催涙ガスの使用、私服員の活動等により相手方の集団を混乱に陥れ、その指揮統制を分裂させ活動を鈍化させる。

  4. 主導者の隔離

    前記1、2と関連して、集団中の主導者・指揮者あるいは煽導者を集団から隔離し、相手方集団力を減殺する。

  5. 積極的行為者の検挙

    積極的な行為者が犯罪を敢行した時は、現場において速やかにこれを検挙する。

 5項目中実に4項目までが、「相手の集団力の減殺」に関するものであるところに、その特徴を見出す事ができます。群衆犯罪は集団でなされるもの。集団を "蹴散らして" しまえば群衆犯罪も起こらない……なるほど一理あり。

 無論、そこで起こった犯罪について捜査もします。しかし、群衆犯罪の起こる場所というのはえてして混乱していて、軽微な違反も含めれば犯罪などそれこそ検挙しきれないくらいあり、証拠集めも大変という事で、積極的に違法行為(特に暴力行為)に及んだ者が主な検挙対象になります。

 例えばデモ行進の際、デモ隊が、本来なら車道左側を3〜4列縦隊でまっすぐ進まねばならないところを、「示威(デモンストレーション)だ!」とばかりに道幅一杯使ってのジグザグ行進を始めたとします。これは本来道路交通法違反なのですが、この段階ではまだ検挙はしません。とは言っても違法行為であるので、警職法5条に基づき指揮官車よりジグザグ行進を中止するよう警告がなされ、次いで並列中の警備部隊がデモ隊を制止、具体的には本来の行進位置に「圧縮規制」します。この時警察官をどついたりする者がいれば、公務執行妨害罪の現行犯!

 またあるいは何か突発的なイベントや抗議活動などで、道路に人が集まって騒いだり、ものをぶちまけていたり、あるいは路上に座り込んでいたとします。これは地方の公安条例や、居場所が道路上であれば道路交通法などに違反することになるのですが、やはりこの段階ではまだ検挙はしません。警職法や公安条例に基づき、解散するよう、あるいはその場をどくよう警告がなされ、次いで駆けつけた警備部隊が規制を行います。で、この時警察官をどついたりする者がいれば、公務執行妨害罪の現行犯!

 このように、警備実施の基本は「現場での警告」と「各種規制活動による集団力の減殺」です。警告には手持ちの拡声器や機動隊の指揮官車が用いられますが、違法行為をやめるよう「警告」している事、命令者の名、時刻をはっきり言うことが要点です。「デモ隊に警告する、直ちにジグザグ行進をやめなさい! 警告、午後○時×分、△□警察署長!」「ジグザグ行進をやめない場合、警察は部隊で規制する! 警告、午後○時×分、△□警察署長!」というように。特に命令者の名と警告時刻は、はっきりと言って記録しておけば、後々事件化して裁判になった時、事前警告があった事の証明に使えます。事前警告があったという事は、検挙された側は事前の警告にも関わらず犯罪を敢行した、すなわち違法性の認識があったという事になり、公判の運営上有利(*)。

 警告が効果ない場合はいよいよ規制という事になるのですが、規制に関連し検挙が行われる可能性もあるため、規制と並行して現場記録を入念に取ります。具体的には、現場の状況をカメラやビデオで撮影し、または録音します。なお、この段階で撮影をなす事については、いまだ違法行為に及んでいない段階での撮影は肖像権・プライバシーの侵害だとして違法視する向きもあるのですが、警告を聞かない=まさに犯罪が行われようとしているとみなされ、現場記録撮影が認められるものらしい(*)。記録に当たっては警察本部警備部や機動隊から人を出して現場記録班(採証班ともいいます)を編成し、指揮官車の上や、前線部隊の中で活動させます。なお、言うまでもない事ですが、これら記録は後々事件化して裁判となった時には証拠として用いられます。

 機動隊が規制活動をする場合、部隊は基本的に盾を持つか素手で活動します。ジグザグ行進するデモ隊を道路の片側へ押しやったり、車道上で騒ぐ人々を歩道上に押し上げたり別の場所に排除したり、あるいは座り込んでる団体の構成員を独りずつごぼう抜きにしたり。警告に従わない相手を、盾や手で押したり抱えたりして、どかして行く訳です。

 規制は、検挙や鎮圧ではないので、まだ警棒は使いません。装備紹介のところでも書いたように、部隊組織で活動する際の警棒使用は部隊指揮官の命令によるものとされ、緊急の場合(例えば、目の前の相手が突如刃物を抜いたとか)を除くと、命令なしには抜くことさえもありません。

 集団力減殺には効果的な催涙ガス器具はもっと厳しく、部隊活動時の使用が指揮官の命令よるべきであるのはもちろん、そもそも現場に持ち出す時点で所轄長(※警視総監・道府県警察本部長のこと)の許可が要り、使う時にもあらかじめ事前警告をしなければなりません。拳銃に至っては、警備の時には基本的に携帯して行きません。

 度重なる警告にもかかわらず違法(のおそれがある)行為が続くと、規制に移る訳ですが、規制が始まってもなお抵抗し、違法に渡る行為をやめないとなれば、もはやこれまで! 事態はついに鎮圧・検挙となります。

 機動隊が装備する警棒やガス筒は、犯人の逮捕または逃走の防止・自己または他人の防護・公務執行に対する抵抗の抑止・犯罪の制止その他の職務遂行のため、使用されます。とりわけ、正当防衛・緊急避難に当たる場合、あるいは懲役三年以上の重罪犯容疑者の逮捕に際し抵抗や逃走を防止する場合においては、武器に準ずるものとして使用され相手に危害を加えてもやむを得ないものとされます。

 角材など凶器を持ったり投石したりして抵抗する相手集団に対し、まず機動隊は盾を構え防護を固めます。事前警告を済ませると、指揮官の命令で催涙ガス筒を撃ち込み、放水車がいれば併せて高圧放水も行い、とにかく相手を弱らせて行く。ちなみに高圧放水は、通常の水の他に、色水を使い、相手集団の服を色付けして後で検挙した時の採証に役立てる事もあります。

 催涙ガスや放水で相手が浮き足立ったところで、前進し、違法行為を確認した相手から順次現行犯で逮捕して行きます。石や火炎瓶を投げたり、角材で機動隊に突きかかったりすれば、もうそれは立派な凶悪犯罪。公務執行妨害、器物損壊、暴行、凶器準備集合、火炎びん処罰法違反、などなどなど。これらの行為が確認されれば、指揮官の命令で1個分隊程度の警察官が相手集団に突入し、容疑者を拘束して戻って来ます(*)。またこの時、警棒使用の命令があれば、警察官は警棒を抜いて突入し逮捕への抵抗抑止と防護のため使用します。

 ……もっとも、最近ではデモや集会が荒れること自体ほとんどありませんから、こういう「催涙ガス立ちこめ石が飛ぶ中警棒片手に大乱闘」という場面を見ることもなくなりました。

 いくら治安警備といっても、本来のデモ行進をちょいと逸脱する程度だとか座り込み程度なら、そこまでぴりぴりする必要もなかったんですが……。しかし、かつて実際に機動隊が鎮圧に当たってきた群衆犯罪は、こんなもんではありません。

・波乱の歴史

 1950年代、60年代、70年代と、機動隊は波乱に溢れる状況を経験して来ました。ある意味皮肉な話ですが、かような過去の歴史が、今現在の強力な警備警察を作り上げたと言えます。

 ちゅう訳で、ここでは「取り締まられる側」の話を少し致しましょう。といっても包括的な話をするんでなくて、暴力的なデモ隊、それも主として安保闘争期のデモ隊が行使した集団暴力についての話がメインになっちゃうんですけどね。趣味の関係上。

 戦後すぐから1950年代までの時期、機動隊の相手は、一口で言えば共産党でした。

 あまり詳しくは書きませんが、大戦終結後、合法政党となった共産党は活発な活動を開始し、労働運動と連帯して勢力を伸長して行きます。当初は議会を通じての政権獲得を目指していましたが、1950年の朝鮮戦争を直接のきっかけとして、武力革命を目指すようになります。

 昭和26年・1951年10月、第5回全国協議会において、共産党は「51年綱領」を制定しました。この綱領では「日本の解放と民主的改革を、平和的手段によって達成し得ると考えるのは間違いである」とうたわれました。要は武装闘争宣言。以前から頻発していた集団事件は、これ以降さらに激化して行きました。

 この時期の共産党の武装闘争は、主要な武器として火炎瓶が使われた事から「火炎瓶闘争」と呼ばれました。また警察側は、鎮圧のためにしばしば発砲しており、デモ隊の側に死者を出しています。昭和27年・1952年5月のメーデー事件、5.30記念日集会、同年7月の大須事件などで警察側が発砲しています。デモ鎮圧のために警備実施部隊が武器を使ったのは、戦後においては今のところこの時期だけ。現在ほど整った警備警察がなかったせいもありますが、当時の武装闘争の激しさも伺われます。

 一時は革命前夜と称されるほどの情勢に至ったそうですが、しかるに実際に政府がひっくり返る事はなく、朝鮮戦争の終結を受けて火炎瓶闘争は終息に向かいました。共産党も綱領を変更し、今ではすっかりおとなしい。

 時代は下って昭和35年・1960年。この年は、安保闘争と三井三池闘争があり、またもや警備警察が大いに出張る年となります。

 安保闘争は、講和条約時に結ばれた日米安全保障条約の改定を巡り、反対運動が盛り上がって闘争へと発展したものです。前年の昭和34年・1959年頃から反対運動が始まり、60年1月16日には当時の岸首相の訪米に反対する全学連デモ隊による羽田事件が発生、これ以降改定反対のデモが頻発するようになります。特に5月からは、国会包囲デモが連日のように起こります。デモ隊は首相官邸、アメリカ大使館にも押しかけた他、全国各地でも同様の抗議活動が展開されました。

 1950年代の火炎瓶闘争と違い、1960年の安保闘争は自然発生的な部分も大きく、全学連や労働組合だけでなく、一般市民も数多くデモ隊に参加していたのが特徴であるようです。それだけにデモの規模も大きく、警視庁は、治安警備としては初めて近隣他府県警察に警備の応援を要請、延べ4,045人の応援を得ました(*)。さらにこのほか、別項でも既述した通り、警視庁は本来の機動隊員に加えて各所属の各所属の機動隊経験者830人を機動隊と併任させ、臨時編入する措置も取りました。まさに警備の限界ぎりぎりまで至ったという感あり。その後昭和35年・1960年6月23日に、改定された日米安保条約は発効し、これ以降反対運動は「ひとまず」沈静化しました。

 一方の三井三池闘争は、三井鉱山が行った指名解雇による人員整理が発端の労働争議です。当初は、会社側と、解雇に反対する労働組合側の対立でしたが、組合が分裂した事で事態は複雑になります。その間の細かい状況は書きませんが、ストライキを打った上鉱業施設を占拠して操業させまいとする組合側、ロックアウトで組合を排除し生産再開したい会社・第2組合側が鋭く対立していました。昭和34年・1959年末から始まった争議は翌昭和35年・1960年に入って激化し、警備に当たる福岡県警は、隣接する熊本県警はじめ九州各県から応援を受けて警備を実施します。

 一刻も早く生産再開にこぎ着けたい会社側は、組合による鉱業施設の占拠を解くべく、裁判所に仮処分を申請し、それを執行しようとします。ところが組合側は仮処分に従う気はさらさらなく、占拠したままてこでも動かない構え。このため仮処分執行・鉱業施設の占拠解除のために警察が動きます。昭和35年・1960年7月には、労働組合側20,000人以上が籠城する鉱業施設の占拠解除のため、警察は約7,000人にも達する警備部隊を集結させました。九州管区のみならず中国・近畿管区の各府県警からも応援を得ていました(*)。この警備規模は、九州内では平成12年・2000年の九州・沖縄サミット時の警備に次ぐものです。

 7月の段階では衝突寸前、あわやこれまでかと思われましたが、土壇場で労働省(当時)中央労働委員会が行った労使間問題解決のための斡旋申し入れが通り、ひとまず休戦。その後、中央労働委員会が提示した斡旋の内容を、労使双方とも受け入れ、三池闘争は終わりを告げました。

 三池闘争以降、労働紛争に警備警察が出動する事例は徐々に減って行きます。しかるに安保闘争については、安保条約の一方的終了通告が可能となる昭和45年・1970年に向け、反対運動が高揚して行きました。また、第二次安保と時同じくして起こった成田空港問題も、後々に続く火種となります。

 昭和42年10月8日の第一次羽田事件を皮切りに本格化した第二次安保闘争は、左翼学生が中心となって遂行された闘争でした。彼らは時同じくして起こった学園紛争に介入し、学園を拠点化し、そこから街頭へデモ闘争へ繰り出しました。時に1967年。3年後の1970年は安保条約発効から10年。条約第10条によれば、発効から10年経過後は、日米いずれか一方からの通告で安保条約を終了させることができます。その節目の年に向け、時代は風雲急を告げていました。

 これに加え、昭和43年・1968年6月の日大全共闘を皮切りに学園民主化を求める学生運動、全学共闘会議(通称「全共闘」)運動が全国の大学に野火のように広がりました。この全共闘運動自体は、元々は暴力的なものではなかったようです。しかし極左過激派学生が介入して来たために運動は次第に集団暴力を伴ったものになり、さらに上記安保闘争ともからんで問題は複雑化して行きました。

 学生が中心となり「学園封鎖」「街頭デモ」の二本立てで集団犯罪がなされた事が、この時期の特徴です。街頭で戦闘的デモ隊を相手とするのは機動隊のお手のもの、ですが、学園封鎖の解除というのはこの時期特有のものです。取り締まろうにも、学問の自由は憲法で定められた基本的人権、という事で大学構内には機動隊もむやみに乱入できず、極左過激派がいるのが分かっていても当初は攻めあぐねた様子(*)。本格的な解決は昭和44年・1969年8月に「大学の運営に関する臨時措置法」(いわゆる大学臨時措置法)が施行されてから、という事になります。

 こうした学生運動の中で、先頭に立って積極的に集団暴力を行使したのが、共産党系の既成左翼に対置して新左翼とも呼ばれた、極左過激派の学生です。昭和35年・1960年に安保闘争を戦った共産主義者同盟(通称ブント、共産同)に始まる、急進過激な左翼組織。幾つもありますが、それらをひっくるめて新左翼と呼んでいます。昭和35年・1960年に安保条約をついに阻止できなかった経験に鑑み、今回(70年)こそは必ず!という訳で、上記したように昭和42年後半からその活動を活発化させました。目的達成のためには暴力の行使も厭わず、極めて過激です。

 昭和44年以降大学への警察導入が進み、また昭和45年・1970年には安保条約は自動延長。第二次安保闘争は一区切りを迎えます。しかし、新左翼過激派は暴力行為をやめる事はなく、その後も闘争を継続し、様々な運動に介入していきました。成田も、新左翼が介入した運動の一つです。

 昭和40年・1965年以降成田の問題は悪化の一途を辿っていきました。羽田の東京国際空港に続く第2の首都圏国際空港の候補地を成田に定めたまではまだ良かったのですが、用地の取得がうまく行かず、土地収用法に基づく強制収用を選択した辺りから雲行きが怪しくなります。現地の住民は猛反発して立ち退き拒否、収用のための測量も拒否。これに対して警察力が導入され、さらに新左翼過激派が介入するに至って事態は決定的となりました。

 昭和45年・1970年の強制測量開始以降、立ち退きを拒否して立てこもる住民や過激派、これを排除しようとする警察の間で衝突が頻発しました。昭和53年・1978年3月の成田開港阻止闘争警備では、警察側が過激派集団に向け武器を使用するまでに至りました。その後同年5月に成田空港は開港しますが、予定通りの施設を完成させられないままの、見切り発車的な開港でした。その後も土地取得・施設拡充は遅々として進まず、今現在(平成20年10月現在)もなお問題の解決には至っていません。成田開港より30年が経つも、いまだ未完成のまま。

 かように、1960年代末から70年代にかけては極左過激派が大暴れした時期であり、現在の警備警察機構が整備されたのはこの時期であると言っても過言ではないでしょう。少なくとも、この時期の機構が基礎になっている事は間違いありません。また現在もいまだ存続する極左過激派組織の大半は、第二次安保闘争の頃に組織されたものです。

 以下、現在とも繋がる部分の大きいこの時期の極左過激派の行動と武器について、ごく簡単に列記してみましょう。

 極左過激派が、デモに当たって集団暴力の行使をも厭わなかった、という点は先にも述べました。ヘルメットかぶって得物は角材、覆面にグラサンという格好で顔を隠して警察の現場写真撮影に対抗、さらに検挙される事も念頭に置き身元を判別できるものは一切所持しない、逮捕されても黙秘また黙秘、と徹底しています。実に計画的。

 60年の第一次安保闘争がどちらかというと自然発生デモの側面もあったのに対し、こちら第二次安保闘争は、最初から暴力でもって警察権力に刃向かう事を指向していました。かつての、50年代の火炎瓶闘争を彷彿とさせる "武装闘争" の姿勢です。成田闘争も、元からこじれる要素があったとはいえ、極左の介入が過激な武闘路線を決定的にしたといえます。

 例えばの話、第二次安保・成田闘争の時の新左翼は、凶器準備集合の容疑でそれこそ枚挙に暇ないほど検挙されていますが、一方60年の安保闘争時にさかのぼってみると、当時のデモ隊が凶器準備集合の容疑で摘発される事はありませんでした(当時同罪が新設したてで運用の基準が定まっておらず、また予防検束との批判が強かった……という事情があるにせよ)。それだけ、新左翼が暴力的だったって事です。

 さて、暴力を振るうとなれば、徒手空拳よりは得物があった方がよほどましな訳で、これは集団でも同じ事。ここで、武闘を指向した極左過激派デモ隊は、一体どのような凶器でもって警察に刃向かっていたのかといいますと。

 石を投げるのは基本です。石の他にも色々投げはしますが、しかし基本はやはり投石であると。

 現在、歩道の舗装といえばアスファルトが中心ですが、昔は敷石舗装のところが結構あったそうです。で、極左暴力集団がその敷石をはがして、砕いて、投石に用いるという事態が横行して問題化した事がありました。特に東京都の歩道。昭和42年以降大学紛争と第二次安保闘争が荒れゆく中、政治経済の中心地というだけでなく、東大や日大といった紛争の目玉的な大学を抱え、事ある度のデモでは激しい投石で機動隊に負傷者続出。そこで、投石対策の一環として考え出されたのが、「歩道の敷石を何とかする」。

 警視庁では「環境整備」と称し、昭和43年秋に神宮外苑の明治公園周辺の歩道から敷石を撤去。その後も大学紛争警備や極左の集会に先んじて関係地域の敷石撤去を進め、これにより投石による被害は大幅に減ったそうです(*)。また東京都も、警視庁からの申し入によって歩道のアスファルト舗装化を進めました(*)。昭和44年1月には、この問題が閣議でも取り上げられ、歩道の整備のため都に対する財政支援ができるかどうかが検討されました(*)。

 ところで投石といえば、舗装の敷石の他にも、鉄道線路の砕石が投石に用いられて問題になった事もありました。そこで当時の国鉄当局は、主に首都圏主要駅間の線路について「線間舗装」を施す対策を取ったそうです(*)。具体的には、線路のバラスト(※基盤の砕石)をアスファルトで固め、文字通り舗装するというものです。

 相手を殴る得物。フラットな棒の他、角材だとか、五寸釘を打ち付けて威力upを図った代物もあるそうで、ここまで来るとかなり意図的です。殴る気満々。

 共産党系の民主青年同盟のデモ隊は農具の鍬の柄用の樫材、新左翼の革共同中核派は鉄パイプ、と各派愛用の棒がある(あった)という話も聞きます。闘争を意味するドイツ語「ゲバルト」を頭に付けてゲバルト棒、さらに略してゲバ棒と呼ぶのが通の証。……ところで、「キリン棒」って何ですか?

火焔瓶

 モロトフ・カクテルとも称される由緒ある(?)武器、投げつけて燃やすための、見紛うかたなき凶器です。これを持って集会したりデモったりすると、暴力行使を企んだ上で多衆集合しているものとみなされ、凶器準備集合罪容疑でお縄となります。当たり前ですね。

 基本は瓶にガソリン詰めて、口のところに油を染ませた布を付けるタイプです。投げる時は布に火を付けて……という訳ですね。改良型は、詰め物がガソリンのみからガソリン+粉石けんになります。こうすると、よく燃える上に消えにくいんですって。へぇぇ。

 さらに高性能なものになると、瓶の中にガソリンと硫酸を詰めて密封し、瓶の外側に塩素酸カリウムを塗った紙片を付ける、という仕組みに進化します。発火の仕掛けは、投げて瓶が割れたら硫酸と塩素酸カリウムが反応する、というもの。ガソリンも燃えるし硫酸も燃える、投げつけて割ればほぼ確実に発火すると、凶悪この上ありません。ついでに、化学をかじった友人曰く「安い薬品を使っているのでコストパフォーマンスが良さそう」。おいおい。

 この火炎瓶、凶器ではありますが、銃や刃物や爆発物と違って当初はその製造・所持・使用を取り締まる法律がなく、摘発上問題がありました。個人の部屋に火炎瓶が備蓄してあったとしてもそれだけでは摘発できないし、火炎瓶を手に歩ってるやつがいてもそれだけでは摘発できない(集団ならともかく、ぽつねんといる個人の場合)、せいぜい軽犯罪法違反(理由なき凶器の所持)くらいにしか問えなかったのです。こういう事情から、昭和47年5月に「火炎びん処罰法」が施行されました。

ラムネ弾

 最近は市販の飲料といえばスチール缶にアルミ缶にペットボトル。瓶入り飲料はなかなか目にしなくなりました。なんと、夏の風物詩ラムネさえもがペットボトル化されているほどです。私は瓶入りラムネが大好きで、夏の盛りなどはもう無性に飲みたくなるものなのですが……それはともかくとして。

 ラムネ弾は、このラムネの空き瓶を使った凶器です。ラムネ瓶は栓にガラス玉を使っています。このガラス玉の栓は飲む時瓶の中にぽんと落とすんですが、瓶を傾けて玉を飲み口のところに持って来ると簡単に瓶を密封出来る、というところが要点です。

 ラムネの空き瓶に、まずカーバイトを詰めます。次いで水を注ぎ、瓶を傾けてガラス玉を使って密封状態にします。瓶の中では水とカーバイトが反応し、アセチレンガスが発生します。カーバイト及び水の量によって多少違って来ますが、密封して大体4〜5秒後には、内部の圧力に瓶が耐えきれなくなり、ばーん!

 警察(裁判所だったかも。)が行った試験の結果では半径3〜4mの範囲に危険な破片を撒き散らし、殺傷能力は十分にあります。……もっとも実際は、タイミング良く投げないとヘンなところで炸裂して相手にダメージがうまく与えられないため、効果的な使用は難しく、そこまで広く用いられる事はなかったようですが……。

 大体このような凶器を携えて、過激派は安保粉砕・日本革命を叫び闘争を展開しました。ゲバ棒vs警棒、火炎瓶vs放水、投石vs催涙弾、これは最早銃がないだけの市街戦です。

 しかし結局安保は粉砕できず、日本に左翼革命は起きず、それどころか逆に積極的な暴力行使がたたって今に残るは悪評ばかり、というのが現状。なにせ銃器使用の人質立てこもり、ハイジャック、爆破、海外でテロまでやらかしました。まあ、以上は治安と権力の側から見た話で、過激派には過激派なりの理論と正義があったみたいですが、しかしそれを取り上げるのは私の目的とするところではありません。

5. その歩み

昭和20年10月4日 「政治的市民的及宗教的自由ニ対スル制限ノ撤廃ニ関スル覚書」
   ↓
 10月13日 勅令第567号(即日施行)
…内務省警保局の保安課・外事課・検閲課、警視庁の特別高等警察部・総監官房情報課、各庁府県警察部の特別高等警察課・外事課・検閲課が廃止。
 12月19日 内務省警保局及び各庁府県警察部に公安課設置。
昭和21年1月16日 GHQより覚書2通。
   …日本警察の武装の認可
…警備隊(*1)の廃止
   ↓
 1月24日 内務省警保局、「警備隊廃止に伴ふ警備対策要綱」を通達
   警視庁、庁舎防護のために防護課(*2)設置。
昭和22年3月7日 旧「警察法」 施行
…警察を自治体警察と国家地方警察に分割
  • 自治体警察は東京23区・市・人口5,000人以上の町村に設置。当該地方の公安委員会が独立して運営に当たる。
  • 国家地方警察は上記を除く郡部を管轄。国家公安委員会が運営に当たる。又警察骨幹通信施設・犯罪鑑識施設・警察教養施設の維持管理を掌握する。
昭和23年5月18日 国家公安委員会にて「国家非常事態警備要綱」決定。
 7月12日 「警察官等職務執行法」 施行
    
   この頃より、各地に警備専従部隊設置の動き。
 東京 23年5月27日、警視庁予備隊設置。警備交通部の下に中央区隊・東部区隊、やや遅れて8月に南部区隊、24年3月に西部区隊を置く。
   ↓
25年9月16日、警備交通部を廃止し、交通部・警邏部を新設、予備隊は警邏部に移す。同時に予備隊の編成を変え、方面別の編成に改めて第一〜第七方面予備隊とする。
 大坂 23年1月13日、大阪市警察特別機動隊設置。公安部公安第1課に付置する。
   ↓
同3月2日、特別機動隊を改編、公安部機動隊を設置する。
 福島 25年5月、国警福島県本部に機動隊設置。
 千葉 国警・自警の連合機動隊を編成。
昭和26年10月 共産党「51年綱領」制定、火炎瓶闘争へ。
    
   以降、警備態勢強化さる。
昭和27年3月 「破壊活動防止法」案出る。
   ↓
28年7月、国会で法案可決。
 8月 国警本部より、機動隊設置の指令が出る。
   ↓
27年中に20都道府県において機動隊設置。翌28年初頭までに全国で45隊、総人員2,300名の国警系の機動隊が設置さる。
    
   警備態勢強化の動き続く。
 東京 27年4月、警視庁機構改革、警邏部と交通部を合わせて警邏交通部とし、新たに警備第一部・警備第二部を設ける。方面予備隊は警備第一部に付する。
   ↓
10月、方面予備隊を再度編成替え、増員の上4隊編成に戻し、名称も警視庁予備隊と改める。
   ↓
28年5月、警察署勤務員で編成する方面警察隊を新設。後の方機。
 大阪 27年8月、大阪市警と大阪国家地方警察の連合機動隊発足
昭和29年7月1日 現行「警察法」 施行
…自警・国警を一本化、現行の制度に。
   警視庁、管轄区域の拡大に即応し、国警東京都本部機動隊を編入し予備隊1隊増設。5隊編成となる。
 7月27日 警察庁、「機動隊設置運用基準要綱」制定
 9月9日 国家公安委員会、「警備実施要則」制定。
    
   この後、各地で警備体制整備が進む。
 東京 警視庁機構改革。警備第一部→警備部、警備第二部→公安部、警視庁予備隊→警視庁機動隊と改称する。
    
   この年、手投げの催涙筒に代わる催涙ガス筒と発射器を開発。調達を開始する。
昭和30年  警備装備品整備五ヶ年計画
   ↓
34年度までに個人装備品を中心に整備
(出動服、水筒、飯ごう、出動用毛布、投光器、拡声器、発動発電機など)
昭和35年  60年安保闘争警備、三井三池闘争警備
昭和36年3月 警視庁、「機動隊特別隊員制」制度化。後の特機
   警備装備品緊急整備三ヶ年計画
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38年度までに採証器材・後方支援器材を中心に整備
(各種写真機、録音器など採証器材)
(天幕、折畳み式寝台、出動用毛布など後方支援器材)
(出動服、略帽、ヘルメット、雑のう、水筒、飯ごうなど個人装備品)
昭和37年10月13日 警察庁、「機動隊設置運用基準要綱」全面改正
   この年までに、全都道府県警察が機動隊を設置
昭和38年11月14日 国家公安委員会、「警備実施要則」全面改正
昭和41年6月28日 警察庁、第二機動隊の設置に関する通達を出す。
昭和42年10月8日 第1次羽田事件。第二次安保闘争始まる。
    
   以降、警備体制大幅に強化さる。
 昭和43年度/44年度予算において全国の警察機動隊員を合計4,000名増員
昭和44年東京 1月10日、警視庁機動隊、3隊増設さる。(六機、七機、八機)
3月27日、公安部公安総務課の付置機関として、公安特科隊設置。
7月1日、機動隊、特科車両隊設置。
8月26日、機動隊、1隊増設さる。(九機)
 大阪 4月1日、警備部機動隊を1隊増設。(府警警備部第二機動隊)
    
 2月13日 警察庁、「管区警備部隊」の編成準備に関する通達を出す。
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 4月5日 警察庁、管区機動隊の編成に関する通達を出す。
    
   この年、銃器使用の人質事件対処を目的とした特殊銃(ライフル)25丁を初めて調達。
警視庁・大阪・北海道・神奈川・愛知・福岡県警に配備する。
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昭和48年までに、全国の警察にライフルを配備。
昭和45年4月22日 国家公安委員会、「管区機動隊の編成等に関する規則」制定。管区機動隊正式に発足。
昭和50年4月1日 警察庁、爆発物処理班の整備に関する通達を出す。以降、全国で爆発物処理班の編成本格化。
昭和51年5月 従来の単発のガス筒発射器(2型)に代わる新しい6連発のガス筒発射器(3型)を開発、配備。
昭和52年9月 ダッカ空港日航機ハイジャック事件
 特殊部隊整備始まる。
 警視庁第六機動隊、大阪府警第二機動隊に特殊部隊設置。
昭和53年  千葉県警に新東京国際空港警備隊設置。
平成8年4月 北海道・千葉・神奈川・愛知・福岡県警に特殊部隊を設置。警視庁・大阪府警の特殊部隊とあわせ、SATと命名する。
全国の警察機動隊に銃器対策部隊を編成。
平成13年  28都道府県警察の銃器対策部隊に機関けん銃(サブマシンガン)を配備する。およそ1,400丁。
平成14年4月 警視庁警備部警護課に総理大臣官邸警備隊設置。
平成17年9月 沖縄県警に特殊部隊を設置。
(*1)警備隊

…戦前の警察における、警備実施部隊です。警備隊が官制上正式に設置されたのは昭和19年4月の事です。太平洋戦争が苛烈化するに伴い、空襲その他非常事態に際しての治安維持は、集団警備力でもって迅速果敢に行う必要があるという事で、設置されたものであります。

 これより先、昭和8年10月に警視庁が特別警備隊を設置しています。当時は血盟団事件や五・一五事件、神兵隊事件等といった集団事件が続発した直後であり、こういった集団犯罪に対処するための集団警備力の必要性が痛感されていました。

 特別警備隊・警備隊は非常・有事の際に統制ある集団活動を行う必要性から軍隊組織とされ、服装・装備も一般の警察とは異なる特別なものであり、平素より特別の教養訓練を施された組織でありました。

(*2)警視庁防護課

…警備隊の廃止を受け、警視庁が庁舎防護のために設けた部署です。当時は労働運動や在日朝鮮人による運動などが盛んで、集団事件もしばしば発生し、事件に関連して容疑者を逮捕すると、その釈放を要求してデモ隊が警察署に押し寄せる事も珍しくありませんでした。警察署が占拠されたり逮捕した容疑者を奪われる事件も発生したため、庁舎警備のため特別に設けられたのが防護課です。

 防護課は課員およそ200名、警視庁管内の情勢不穏な警察署に派遣され庁舎を警備します。相手は集団で来るのが普通なので、防護課も集団行動でもって庁舎を護りました。同課の要員は、昭和23年5月25日に警視庁機動隊の前身たる予備隊が設置されるに当たってその中核となっており、発足の早さともあいまって、戦後警察の集団警備部隊の源ともいえる組織です。

 
 
主要参考資料;
『焦点』各号 編;警察庁
『あゆみ』各号 編;警視庁警備部
『自警文庫』各号 編集;警視庁警務部教養課ほか 発行;(財)自警会
『はげまし』各号 発行;一般社団法人機動隊員等を励ます会
『激動の990日 第2安保警備の写真記録』編;第2安保警備記録グラビヤ編集委員会 1971
『この剛直な男たち 警視庁機動隊30年のあゆみ』著;永峯正義 刊;立花書房 1978
『あゆみ 機動隊創設40周年記念特集号』企画制作;警視庁警備部 編集発行;機動隊創設40周年記念行事推進幹事会・警視庁警備部警備第二課技術係 1988
『東大落城』著;佐々淳行 刊;文藝春秋 1993
『警視庁機動隊50年の軌跡』編・刊;警視庁機動隊創設50周年記念行事実行委員会 1999

Special Thanks to:CHEETAHさん、Julietさん、ふくしょうほんぶ1さん、OYANNさん、まさやんさん、イニシャルT・Yさん、にうさん


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