1960年・昭和35年、安保反対のデモは膨れ上がるばかりで警察独力では対処し難くなりつつあった……とは前項で触れた通りです。この状況下、自衛隊──特に陸自は、治安出動を見据えて準備を進めていました。
当時、陸自第3管区総監・東部方面準備本部長・東部方面総監(初代)を経て陸上幕僚長の座にあった杉田一次氏は、治安出動にことのほか関心があったらしく、氏の著作(『忘れられている安全保障』、株式会社時事通信社刊、1962)には当時の状況がいろいろと紹介してあります。
杉田陸僚長は東部方面準備本部長時代から「冷戦準備」の指導にいそしみ、昭和35年3月に「昭和35年度における治安出動準備に関する計画(案)」なるものを示達。その直後陸僚長に就任しますが、陸幕長として行った施策の第一に「間接侵略に関する教育訓練」を挙げました。東部方面総監時代の昭和35年1月に羽田事件が発生し、陸幕長就任後も安保反対デモは激化する一方という状況の中、危機感をつのらせるところがあったらしい。(*)
当時の陸自は、治安出動についてはほとんど視野に入れておらず、教育・訓練はもっぱら外部からの直接侵略に対処するものばかり、間接侵略・治安出動の特殊性は考慮外であった模様です。杉田氏が陸自第3管区総監であった当時(昭和33年〜34年頃)、「冷戦対処」の演習を指導したところ、治安出動ゆえの特別な対応が必要であるはずなのに、部下は直接侵略時におけると同様に「敵」を殲滅せんとする行動に出てしまい、治安出動に対する準備不足をしみじみ思い知った…とか。かくて、「冷戦に対する指導を強化刷新する必要を痛感」した、と述べています。(*)
もちろん、それまでにも治安出動に関すると取り組みは一応なされていました。防衛庁・自衛隊が発足した直後の1954・昭和29年9月30日には、防衛庁長官と国家公安委員長との間で「治安出動の際における治安の維持に関する協定」(いわゆる「基本協定」)結ばれ、治安出動時における自衛隊と警察の基本的な関係や役割分担などについての骨格が定められました。以降、同協定に基づくさらに具体的な関係協定として、「治安出動の際における治安の維持に関する細部協定」(1954・昭和29年9月30日)、「治安出動の際における自衛隊と警察との通信の協力に関する細部協定」(1957・昭和32年12月25日)、「治安出動の際における自衛隊と警察との通信の協力に関する実施細目協定」(1960・昭和35年3月29日)が結ばれます。この他昭和30年(1955年)には、「自衛隊の治安出動に関する内訓」(昭和30年防衛庁内訓第5号)という内部規則が定められました。
また自衛隊は、前身たる保安隊時代より、防衛上・警備上の行動に必要な情報を編集し図化した「警備地誌」を作成していますが、これは防衛出動・災害派遣の他に治安出動に用いることも当然視野に入っていました。警備区域内の道路・橋梁、主要施設とそれに関する人的状況、地勢など自然地理・人文地理に渡る事項を調査して作るのですけれども、例えば警備区域内の主要施設について調査を行う場合、施設に関わる人的事項の調査として、調査対象施設に関わりある労働組合や労働争議の調査が行われることもありました。まあ、あくまで主要施設に関する人的事項という前提を踏まえての調査であり、警備区域内の治安情勢なり、労働組合なり、市民運動なりを広く一般的に調査しようとしたものではない…ということだそうですが…(*)
さらに1959年・昭和34年には、陸自の調査学校(当時)において、国土防衛戦における情報・心理戦の分野を扱う新しい教育課程が開設されます(*)。後にCPI(対心理情報課程)の名で知られるようになる教育課程であり、治安出動とも関係を有するものでした。
このように、安保闘争前の1950年代においても、治安出動に関する一定の備えがなされてはいました。ただ、それはあくまで基本中の基本、警察との協定や内部規則の制定や必要事項の調査、学校における教育課程の開設といったものにとどまり、部隊教育や演練といったところまで行き届いてはいなかった。そこのところが60年安保を目前にして急遽強化すべき点として浮上した、ということです。
具体的には、昭和35年4月20日・21日の両日、全国にわたる指揮所演習を行い、ここから各部隊が教訓を汲み取り具体的な出動準備と実地訓練に移って行きました(*)。「自衛隊の治安出動に関する内訓」を廃止し「自衛隊の治安出動に関する訓令」を定めたのもちょうどこの時期です(昭和35年5月4日防衛庁訓令第25号)。訓練面では、例えば首都の防衛警備を担任し治安出動となればその中核となるであろう東部方面隊第1管区隊(当時。現在の第1師団)において、第1普通科連隊の隷下3個大隊と本部管理中隊・重迫撃砲中隊が、それぞれ密集隊形を組み暴徒鎮圧に従事する訓練を繰り返し行っていたことが分かっています。
当時の関係者の証言によれば、装甲車(米軍払い下げ)やトラックに指揮官が座乗し、その両側で隊員が隊列を組みます。隊員は鉄帽をかぶり、防毒面を携帯、銃には着剣。暴徒との衝突時に銃を奪われてしまうことを特に警戒し、銃は体から離れないよう左腕へ固縛、万一の場合には「床尾板で打撃してもよいし、銃剣で突いてもよいから必ず奪い返せ」。また、車両には指揮官の他に、実弾を装填した銃を持った狙撃手が乗り込みます。武器の使用は管区総監(※後の師団長)の命令次第ということになっていましたが、暴徒から銃撃を受けた場合にはそれでは間に合わぬということで、現場指揮官としては、正当防衛の範囲内で現場判断での武器使用を考えていた、とか。暴徒からの銃撃あらば、指揮官が相手を確認し、さらに銃撃を繰り返しそうならば、狙撃手に対し「一発必中の射弾」を命ずる。(*)
訓練と共に資機材の集積も進められ、北海道等から土嚢や鉄条網を運び込み(*)、さらに戦車の出動も想定し、当時は群馬の相馬原駐屯地に居た第1特車大隊から都内や都近辺の駐屯地に戦車を移していた(*)とのことです。
このように治安出動への準備を急ぎ進めつつあった自衛隊ですが、治安維持について第一の責を負うのはあくまで警察。このため、仮に自衛隊が治安出動するとしても、警察を差し置いて自衛隊が前面に出るということは考えられていませんでした。昭和29年の「基本協定」を見ると、「任務分担」の項目において、自衛隊の行動を3段階に分けて記してあります。まず、任務の内容を暴動の直接鎮圧と防護対象の警備に分け、双方いずれもおおむね警察力によって担任し得る場合にあっては、自衛隊は主として警察の支援後拠として行動する。次に、暴動の直接鎮圧に関してはおおむね警察力で担任し得るものの防護対象の警備に関して警察力が不足する場合にあっては、自衛隊は逐次後方の防護対象よりその警備を担任する。さらに、暴動の直接鎮圧について警察力が不足する場合にあっては、自衛隊は警察と協力して暴動の直接鎮圧に当たる。ただしこの場合も、行動地域または鎮圧目標を区分して、自衛隊は、主として、中核体を目される暴徒の鎮圧に努める。
暴動鎮圧も防護対象警備もおおむね警察力で担任し得る場合の「支援後拠」とは少々分かりづらいですが、後年の国会質疑では
「(※全体として警察力が不足している、という認識を前提として)その不足の度合いに量や質のいろいろな問題がありますけれども、とにかく警察力で対処しがたいという事態が客観的に認められる場合ですね。その場合のその出方、出たときの事態の状況がいろいろ想像されるわけですが、その場合に直接中核体といいますか、直接の鎮圧すべき対象が、警察力でまだ鎮圧できそうだという場合、しかしそれがもうちょっとすれば、あるいは警察のほうも最後の力を振りしぼってやるわけですが、うまくいかない場合があり得そうだという場合に、支援後拠にその周囲に自衛隊が出ている。それによって警察のほうも勢いづくし、逆に暴徒のほうは警察の上にさらに自衛隊が出たということによって、その暴動がしずまるということもあり得ると、そのほうが直ちに自衛隊と警察とが同時に力を加えるよりも、警察の力で鎮圧を続けて、そのまま事態がおさまるほうがベターである。その前提には、もともと警察力は少し不足しているという事態がかぶさっているということが、当然この協定にはあらわれている、こういうことを考えております」
「事態によりまして、自衛隊はそういう前提(※全体として警察力が不足している、という前提)で出ますけれども、出て直ちに中核体に当たるのじゃなくて、警察力がまだ全体としては不足している、正面としては、不足していることは客観的に認められますけれども、ある正面をとらえて見れば、自衛隊が直ちに行かなくても、警察がもう少しやれると、そこを自衛隊が出たということでその正面がしずまるということを期待している」
「「暴動の直接鎮圧および防護対象の警備に関して、おおむね警察力をもって担任しうる」、つまり、それ以外にいわゆる私ども(※警察)のほうのことばで申しますれば後方治安でございますけれども、それについてはいろんな不測の事態が予想されるわけでございますね。そうでございますから(中略)例をあげますならば、全体的な意味で警察支援のために威力配置をするとか、あるいは後方において人命の救助あるいは救急活動、いろいろなことがございましょう。そういうようなことについて自衛隊に担任していただくというようなことは、状況によっては当然そういうふうなことが生まれてくるのではなかろうかと、かように考えておるわけでございます」
というような答弁がなされています(*)。……分かったような分からないような……
ともあれ、「支援後拠」といい「逐次後方の防護対象よりその警備を担任」といい「行動地域または鎮圧目標を区分」といい、いかなる状況であれ自衛隊は警察に協力するものであり、自衛隊が警察と共に「暴動の直接鎮圧」を行うことはあっても警察より前に出張るということはないよう協定が結ばれていたわけです。…少なくとも、紙の上では。
さてその問題の安保条約は、アメリカ大統領ドワイト・D・アイゼンハワー(当時)の訪日にあわせ6月19日に批准するものと定められ、これを見越して5月20日に衆院で与党のみで条約批准を可決。これを機に反対デモはさらに激しくなって行きます。6月10日には「ハガチー事件」発生、14日には陸幕にて「アイゼンハワー大統領訪日に伴う処理要綱(案)」を作成(*)、翌15日には国会議事堂の敷地内にデモ隊が乱入し、死者が出てしまいました。安保反対デモは膨れ上がるばかり、米大統領を迎えた上で安保条約を批准する計画は危殆に瀕し、事態鎮圧のためついに自衛隊が治安出動するのか…!
しかし。自衛隊が出ることはありませんでした。当時の赤城宗徳防衛庁長官は、あくまで自衛隊の治安出動に反対。また、治安出動の準備を練りに練っていた制服組自体も、本心では治安出動に反対(*)。かくして、日本政府はアイゼンハワー大統領の招請延期を決定しました。米大統領訪日がないまま、安保条約は6月19日に自然成立、23日に発効、これを見届けた岸信介内閣は総辞職します。60年安保闘争は終わりを迎え、自衛隊の治安出動は幻となったのでした。