投石、火炎瓶、催涙弾、銃剣

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 さあいよいよやって参りました。自衛隊の出番であります。治安情勢はいよいよ風雲急を告げ、国家はまさに屈しようとしている、日本を守る自衛隊、俺がやらねば誰がやるぅ!……なんてね。

 警察がお手上げとなれば、バトンは自衛隊に渡されます。でもバトン渡されてからあたふたと準備運動始めてたんじゃ、格好付きません。という事で、自衛隊は平素より、状況の変化を見据えつつ治安出動の準備を行って来ました。例えば大規模な暴力デモ、あるいは武装ゲリラ・テロ。どのような状況にどのような手を打とうとしたのか、それをこれから見て行きます。

 まずは、1960年代・70年代における暴力デモ対策から。かつて、自衛隊の治安出動といえばデモ鎮圧のことであり、これを抜きにしては語れないものでした。現在では少々古臭くなりつつある話ですが、現在への影響なしとしない部分もありますので、ここを皮切りに話を進めることにします。

全てはここから始まった?60年安保闘争

 1960年・昭和35年、安保反対のデモは膨れ上がるばかりで警察独力では対処し難くなりつつあった……とは前項で触れた通りです。この状況下、自衛隊──特に陸自は、治安出動を見据えて準備を進めていました。

 当時、陸自第3管区総監・東部方面準備本部長・東部方面総監(初代)を経て陸上幕僚長の座にあった杉田一次氏は、治安出動にことのほか関心があったらしく、氏の著作(『忘れられている安全保障』、株式会社時事通信社刊、1962)には当時の状況がいろいろと紹介してあります。

 杉田陸僚長は東部方面準備本部長時代から「冷戦準備」の指導にいそしみ、昭和35年3月に「昭和35年度における治安出動準備に関する計画(案)」なるものを示達。その直後陸僚長に就任しますが、陸幕長として行った施策の第一に「間接侵略に関する教育訓練」を挙げました。東部方面総監時代の昭和35年1月に羽田事件が発生し、陸幕長就任後も安保反対デモは激化する一方という状況の中、危機感をつのらせるところがあったらしい。(*)

 当時の陸自は、治安出動についてはほとんど視野に入れておらず、教育・訓練はもっぱら外部からの直接侵略に対処するものばかり、間接侵略・治安出動の特殊性は考慮外であった模様です。杉田氏が陸自第3管区総監であった当時(昭和33年〜34年頃)、「冷戦対処」の演習を指導したところ、治安出動ゆえの特別な対応が必要であるはずなのに、部下は直接侵略時におけると同様に「敵」を殲滅せんとする行動に出てしまい、治安出動に対する準備不足をしみじみ思い知った…とか。かくて、「冷戦に対する指導を強化刷新する必要を痛感」した、と述べています。(*)

 もちろん、それまでにも治安出動に関すると取り組みは一応なされていました。防衛庁・自衛隊が発足した直後の1954・昭和29年9月30日には、防衛庁長官と国家公安委員長との間で「治安出動の際における治安の維持に関する協定」(いわゆる「基本協定」)結ばれ、治安出動時における自衛隊と警察の基本的な関係や役割分担などについての骨格が定められました。以降、同協定に基づくさらに具体的な関係協定として、「治安出動の際における治安の維持に関する細部協定」(1954・昭和29年9月30日)、「治安出動の際における自衛隊と警察との通信の協力に関する細部協定」(1957・昭和32年12月25日)、「治安出動の際における自衛隊と警察との通信の協力に関する実施細目協定」(1960・昭和35年3月29日)が結ばれます。この他昭和30年(1955年)には、「自衛隊の治安出動に関する内訓」(昭和30年防衛庁内訓第5号)という内部規則が定められました。

 また自衛隊は、前身たる保安隊時代より、防衛上・警備上の行動に必要な情報を編集し図化した「警備地誌」を作成していますが、これは防衛出動・災害派遣の他に治安出動に用いることも当然視野に入っていました。警備区域内の道路・橋梁、主要施設とそれに関する人的状況、地勢など自然地理・人文地理に渡る事項を調査して作るのですけれども、例えば警備区域内の主要施設について調査を行う場合、施設に関わる人的事項の調査として、調査対象施設に関わりある労働組合や労働争議の調査が行われることもありました。まあ、あくまで主要施設に関する人的事項という前提を踏まえての調査であり、警備区域内の治安情勢なり、労働組合なり、市民運動なりを広く一般的に調査しようとしたものではない…ということだそうですが…(*)

 さらに1959年・昭和34年には、陸自の調査学校(当時)において、国土防衛戦における情報・心理戦の分野を扱う新しい教育課程が開設されます(*)。後にCPI(対心理情報課程)の名で知られるようになる教育課程であり、治安出動とも関係を有するものでした。

 このように、安保闘争前の1950年代においても、治安出動に関する一定の備えがなされてはいました。ただ、それはあくまで基本中の基本、警察との協定や内部規則の制定や必要事項の調査、学校における教育課程の開設といったものにとどまり、部隊教育や演練といったところまで行き届いてはいなかった。そこのところが60年安保を目前にして急遽強化すべき点として浮上した、ということです。

 具体的には、昭和35年4月20日・21日の両日、全国にわたる指揮所演習を行い、ここから各部隊が教訓を汲み取り具体的な出動準備と実地訓練に移って行きました(*)。「自衛隊の治安出動に関する内訓」を廃止し「自衛隊の治安出動に関する訓令」を定めたのもちょうどこの時期です(昭和35年5月4日防衛庁訓令第25号)。訓練面では、例えば首都の防衛警備を担任し治安出動となればその中核となるであろう東部方面隊第1管区隊(当時。現在の第1師団)において、第1普通科連隊の隷下3個大隊と本部管理中隊・重迫撃砲中隊が、それぞれ密集隊形を組み暴徒鎮圧に従事する訓練を繰り返し行っていたことが分かっています。

 当時の関係者の証言によれば、装甲車(米軍払い下げ)やトラックに指揮官が座乗し、その両側で隊員が隊列を組みます。隊員は鉄帽をかぶり、防毒面を携帯、銃には着剣。暴徒との衝突時に銃を奪われてしまうことを特に警戒し、銃は体から離れないよう左腕へ固縛、万一の場合には「床尾板で打撃してもよいし、銃剣で突いてもよいから必ず奪い返せ」。また、車両には指揮官の他に、実弾を装填した銃を持った狙撃手が乗り込みます。武器の使用は管区総監(※後の師団長)の命令次第ということになっていましたが、暴徒から銃撃を受けた場合にはそれでは間に合わぬということで、現場指揮官としては、正当防衛の範囲内で現場判断での武器使用を考えていた、とか。暴徒からの銃撃あらば、指揮官が相手を確認し、さらに銃撃を繰り返しそうならば、狙撃手に対し「一発必中の射弾」を命ずる。(*)

 訓練と共に資機材の集積も進められ、北海道等から土嚢や鉄条網を運び込み(*)、さらに戦車の出動も想定し、当時は群馬の相馬原駐屯地に居た第1特車大隊から都内や都近辺の駐屯地に戦車を移していた(*)とのことです。

 このように治安出動への準備を急ぎ進めつつあった自衛隊ですが、治安維持について第一の責を負うのはあくまで警察。このため、仮に自衛隊が治安出動するとしても、警察を差し置いて自衛隊が前面に出るということは考えられていませんでした。昭和29年の「基本協定」を見ると、「任務分担」の項目において、自衛隊の行動を3段階に分けて記してあります。まず、任務の内容を暴動の直接鎮圧と防護対象の警備に分け、双方いずれもおおむね警察力によって担任し得る場合にあっては、自衛隊は主として警察の支援後拠として行動する。次に、暴動の直接鎮圧に関してはおおむね警察力で担任し得るものの防護対象の警備に関して警察力が不足する場合にあっては、自衛隊は逐次後方の防護対象よりその警備を担任する。さらに、暴動の直接鎮圧について警察力が不足する場合にあっては、自衛隊は警察と協力して暴動の直接鎮圧に当たる。ただしこの場合も、行動地域または鎮圧目標を区分して、自衛隊は、主として、中核体を目される暴徒の鎮圧に努める。

 暴動鎮圧も防護対象警備もおおむね警察力で担任し得る場合の「支援後拠」とは少々分かりづらいですが、後年の国会質疑では

「(※全体として警察力が不足している、という認識を前提として)その不足の度合いに量や質のいろいろな問題がありますけれども、とにかく警察力で対処しがたいという事態が客観的に認められる場合ですね。その場合のその出方、出たときの事態の状況がいろいろ想像されるわけですが、その場合に直接中核体といいますか、直接の鎮圧すべき対象が、警察力でまだ鎮圧できそうだという場合、しかしそれがもうちょっとすれば、あるいは警察のほうも最後の力を振りしぼってやるわけですが、うまくいかない場合があり得そうだという場合に、支援後拠にその周囲に自衛隊が出ている。それによって警察のほうも勢いづくし、逆に暴徒のほうは警察の上にさらに自衛隊が出たということによって、その暴動がしずまるということもあり得ると、そのほうが直ちに自衛隊と警察とが同時に力を加えるよりも、警察の力で鎮圧を続けて、そのまま事態がおさまるほうがベターである。その前提には、もともと警察力は少し不足しているという事態がかぶさっているということが、当然この協定にはあらわれている、こういうことを考えております」

「事態によりまして、自衛隊はそういう前提(※全体として警察力が不足している、という前提)で出ますけれども、出て直ちに中核体に当たるのじゃなくて、警察力がまだ全体としては不足している、正面としては、不足していることは客観的に認められますけれども、ある正面をとらえて見れば、自衛隊が直ちに行かなくても、警察がもう少しやれると、そこを自衛隊が出たということでその正面がしずまるということを期待している」

「「暴動の直接鎮圧および防護対象の警備に関して、おおむね警察力をもって担任しうる」、つまり、それ以外にいわゆる私ども(※警察)のほうのことばで申しますれば後方治安でございますけれども、それについてはいろんな不測の事態が予想されるわけでございますね。そうでございますから(中略)例をあげますならば、全体的な意味で警察支援のために威力配置をするとか、あるいは後方において人命の救助あるいは救急活動、いろいろなことがございましょう。そういうようなことについて自衛隊に担任していただくというようなことは、状況によっては当然そういうふうなことが生まれてくるのではなかろうかと、かように考えておるわけでございます」

というような答弁がなされています(*)。……分かったような分からないような……

 ともあれ、「支援後拠」といい「逐次後方の防護対象よりその警備を担任」といい「行動地域または鎮圧目標を区分」といい、いかなる状況であれ自衛隊は警察に協力するものであり、自衛隊が警察と共に「暴動の直接鎮圧」を行うことはあっても警察より前に出張るということはないよう協定が結ばれていたわけです。…少なくとも、紙の上では。

 さてその問題の安保条約は、アメリカ大統領ドワイト・D・アイゼンハワー(当時)の訪日にあわせ6月19日に批准するものと定められ、これを見越して5月20日に衆院で与党のみで条約批准を可決。これを機に反対デモはさらに激しくなって行きます。6月10日には「ハガチー事件」発生、14日には陸幕にて「アイゼンハワー大統領訪日に伴う処理要綱(案)」を作成(*)、翌15日には国会議事堂の敷地内にデモ隊が乱入し、死者が出てしまいました。安保反対デモは膨れ上がるばかり、米大統領を迎えた上で安保条約を批准する計画は危殆に瀕し、事態鎮圧のためついに自衛隊が治安出動するのか…!

 しかし。自衛隊が出ることはありませんでした。当時の赤城宗徳防衛庁長官は、あくまで自衛隊の治安出動に反対。また、治安出動の準備を練りに練っていた制服組自体も、本心では治安出動に反対(*)。かくして、日本政府はアイゼンハワー大統領の招請延期を決定しました。米大統領訪日がないまま、安保条約は6月19日に自然成立、23日に発効、これを見届けた岸信介内閣は総辞職します。60年安保闘争は終わりを迎え、自衛隊の治安出動は幻となったのでした。

公開訓練まで行った70年安保

 さて。かくして日米安保条約は成立したんですが、これで話が終わる訳ではありません。安保条約は、発効から10年経てば、日米いずれかの条約終了通告により終了することになっていました(安保条約10条)。つまり1970年になれば、日本側の決意次第で条約終了ということが可能になる訳です。このため、70年ともなれば安保条約廃棄を求める左翼の活動が強力に行われることが予想され、60年の安保闘争で萌芽した治安出動準備は、以降70年を見据えてさらに展開して行くことになります。直前になって急速練成した感のある60年とは違い、今回はなかなか念入りなものでした。

訓練資料等の作成

 60年安保後における自衛隊の治安出動準備について、第一に挙げるべきはコレかなという気が致します。60年の段階では最低限の骨組みしかなく、そこに大急ぎで建て付けたような状態で、訓練の指針みたいなものもありませんでした。ないなら作ろう、ということで始まったのが、「冷戦に対する教育訓練の指針となるべき草案」の作成です。前掲の杉田元陸幕長の著書によると、60年安保闘争の最中から関係幕僚に作成を命じ、安保闘争の経験や他国軍の教育訓練のあり方も参考にして作り上げられたそうです。草案完成後、昭和35年の秋には全部隊に示達、同年の訓練計画に追加して治安出動訓練を積極的に実施させることにしました。同草案に基づく訓練は年明けの昭和36年初より本格化し、市ヶ谷の東部方面総監部を手始めとして1月末までには全方面総監部の教育が終了、以降は総監部の指導で第一線各部隊が訓練に入り、同年春頃までには訓練終了予定…という運び(*)。

 この草案なるものが具体的にどういう内容から成っていたのかは、明らかではありません。昭和36年3月に、共産党の国会議員がこれを入手したとしてその内容につき国会で防衛当局を追求するのですが、しかし防衛当局の側は件の資料が本物かどうか確認しませんでした。共産党側はあくまで本物だと言い張りますが、公式には確認されておらず、真相は闇の中。(*)

 ともあれ、自衛隊側が治安行動訓練の「草案」を作り、上級部隊に配布したことは間違いありません。ただ、これはあくまで「草案」であり、成案ではありませんでした。実際に訓練に用いたとはいえ、正式な教範として太鼓判が押されたものではなし。よって成案を得るべく、昭和36年以降もさらに検討が続くことになります。…が、結局、成案を得るには至りませんでした。およそ7年に渡り検討が続いたものの、昭和42年ないし43年頃に検討とりやめとなっています。「治安出動教範というようなものは穏やかならぬものである、いけない」という、当時の増田甲子七防衛庁長官の政治決断による終焉でした。(*)

 教範の作成がとりやめとなった後、代わって出て来たのは「指揮官心得」なるものです。一挙手一投足みっちり規定する教範ほど具体的なものではなく、部隊を運用する指揮官向けの、基本的な基準となるべきもの…なのだそうです。教範は作成せずと決めたものの、さりとて何も基準がなくては訓練に障りがあるということで、新たに検討が始まりました。しかるにこれも、昭和45年に検討とりやめとなっています(*)。昭和45年といえば1970年。安保条約は自動延長、治安出動の可能性もひとまずは薄れ、そうでなくとも風当たりの強い治安出動でしゃかりきになる必要はない…ということなのでしょうか。

 指揮官心得の作成中止以降は、治安出動に特化した教育資料は作られなかった模様。治安出動関連の法規や警察との協定、訓令などの内部規則を各指揮官がそれぞれ研究し、その内容に応じて教育訓練を行う…というところに落ち着き、以後しばらくこのまま続くことになります。(*)

資機材の準備

 60年安保の時に出動を見越して準備された資材というのは、先にも触れた通り、土嚢に鉄条網にバリケードに催涙剤などなどなど。これらは、催涙剤はともかく他の資材については、防衛用のものを治安用に転用したと言ってもいい(*)。換言すれば、ことさら治安出動のために物を揃えるようなことはしていない、とも言えましょう。(そんな余裕はなかった、とも言えるでしょうが…)

 しかるに、70年安保となると様相が変わって来ます。明らかに治安出動を意識したと思われる装備品の購入例が見られます。端的な例は、ヘルメット外装式のフェイスガードと頚椎防護用の垂れ、それに防石盾です。軍隊相手の野戦ではちょっと使わなさそう。むしろ、警察機動隊を彷彿とさせる装備品です。導入と装備化が始まった正確な時期は不明ですが、昭和43年度中に防石盾10,898個を購入したことが分かっており(*)、また後に触れるところの昭和44年10月の治安出動訓練では、ヘルメットにフェイスガードと頚椎防護垂れを付け防石盾を持った陸自隊員の姿が見られます。

 さらに、デモ鎮圧となればてきめん効果を発揮する催涙剤の場合、昭和42年度末の時点で「催涙筒」と「催涙球」を保有。前者は催涙ガス充填手榴弾といったもので、後者は催涙筒よりやや小さい代物です。薬剤ベースで見ると、同年において自衛隊が有する催涙剤はおよそ3t、この内半分の1t半強を年間の化学防護訓練で消費したということです。年度が改まって昭和43年度には、催涙剤3.29tを購入(*)。前年に訓練で使った1t半を補充するだけでなく、その倍になる3t余を買い入れている辺り、治安出動に賭ける意気込みが垣間見えるというか何と言うか…。

訓練

 教育用の資料を揃え(結局完成はしませんでしたが…)、物を買ったら、続いては訓練! 昭和35年の安保闘争を乗り切った後、次なる昭和45年・70年安保を見据え、治安出動の訓練は避けて通れません。

 さて、治安出動訓練は60年安保の段階でも既に行われていたのですが、70年安保を控えた時期に特徴的なのは、いつ・どの部隊が・どこで・どのような訓練を行ったかという具体的な話が、わずかながら分かっていること。そして、60年安保時には思いもよらなかったであろう、治安出動訓練のマスコミ公開までもが行われたことです。自衛隊大いに乗り気です。

 具体的にどのような訓練が行われたのか…確認できる範囲では、次のような事例があります。

  • 昭和40年10月7日・8日 相馬原演習場にて第1師団(*)

     第1師団の年度計画に基づく恒常訓練として行われた。参加部隊は第1普通科連隊(練馬)・第31普通科連隊(朝霞)を基幹とする部隊で、総員795名。演習内容は、1日目が発煙筒や各種障害物の展示、用法演練、中隊の警護行動の演練など。2日目が連隊単位での訓練。2日目の訓練では、縄張り等で架空の市街地を想定し、1普連を主動部隊、31普連を対抗部隊として連隊単位の制圧行動・警護行動などを演練した。

  • 昭和44年7月〜8月 東富士演習場にて第12師団(*)

     はっきりと治安出動訓練の実施が確認できた例ではないが、おそらく行われているであろう、と考えられる事例。8月2日、朝日新聞の記者が登山道から演習場内の土屋台野営地を写真撮影していたところ、自衛隊員から不審者と見なされ、任意同行を求められた。記者は連隊長と面会し、そこで連隊長が、中隊単位の基本訓練を行っていること、一部で治安行動の演習も行っていることを話している。

     参加部隊は第13普通科連隊(松本)。記者は土屋台の野営地内において、フェイスガード付きのヘルメットかぶった隊員の姿や、投石よけと思われる金網を張ったジープ(いわゆる三菱・ジープなのか、それとも他の車両と誤認したのかは不明)、また車体後部上面にやぐらを取り付けた装甲車2両(写真があり、映っているのは60式装甲車。やぐらの上には金網で囲った台と、拡声器がある。連隊長の言葉では「指令車」。台に指揮官が上り、野戦の偵察に用いるとのこと)、および戦車3両を目撃している。なお戦車について、記者は前日(8月1日)に「戦車の前に有刺鉄線を円筒状にした妙な仕掛け」が付いているという話を聞いていたが、当日記者が実際目にした戦車にはそのような仕掛けは付いていなかった。

  • 昭和44年8月5日〜9日 曽根訓練場にて第4師団(*)

     参加部隊は第4師団の普通科4連隊(大村16普連・福岡19普連・小倉40普連・別府41普連)、第4戦車大隊の戦車8両、第7師団の60式装甲車1両、西部航空方面隊のヘリコプター3機(*)、放水車・はしご車等の車両。曽根訓練場内の建造物を利用し、鎮圧訓練を実施した。街路にバリケードを構築し激しく抵抗する対抗部隊に対し、主動部隊は戦車を以ってバリケードを突破。戦車の前面には「異様な鉄材のワク」が取り付けられている。合わせてヘリコプターが飛来し、識別に用いると思われる着色液を撒いた。暴徒が後退して建造物にたてこもると、戦車で包囲した上で、屋上にヘリが着陸、武装した隊員を降ろし制圧した。

  • 昭和44年8月27日 北富士演習場にて第1師団(*)

     参加部隊は第32普通科連隊(市ヶ谷)。参加人員548名、主要装備はトラックなど車両4台、装甲車6両、戦車6両、ドーザー1両、給水車1台、ヘリコプター1機。訓練内容は、市街地における連隊規模での暴徒制圧準備及び同制圧行動。状況は、石、角材、火炎びん、猟銃などを手にした暴徒が市街地内においてバリケードを築き、警察と衝突後付近の建物を占拠、建物内から猟銃による射撃が行われている、というもの。銃器を持った暴徒が騒擾的行動に出ている状況を想定した。

  • 昭和44年10月3日 東富士演習場にて第1師団(*)

     参加部隊は第1師団の普通科4連隊、特科1連隊、施設・戦車各1大隊など計4000名。この内、第1特科連隊第1大隊の訓練がメディアに公開された。人員207名、戦車1両(M-41ウォーカー・ブルドッグ)、装甲車2両(60式装甲車)、ブルドーザー1両、トラックなど車両数台、ヘリコプター3機(輸送用にV-107およびUH-1各1機、また偵察用にヘリ1機)。一方、対抗部隊は人員250名から成る。

     状況は、暴徒およそ800名が重要拠点のビルに押し寄せ、その内の過激な約300名が火炎びんや猟銃を所持しビルを占拠している、というもの。丘をビルに見立て、縄張りで道路を表示、古タイヤやビール箱でビルの壁面を模する。主動部隊の隊員は防石盾と小銃を携帯し、防毒マスクを着用、またヘルメットにはフェイスガードと頚椎防護垂れを付ける。戦車は砲塔のハッチを金網で囲う。装甲車は、車体前方の乗員用ハッチを囲いで覆う他、車体後部上面に背の高いやぐらを立てた指令車仕様。対抗部隊の人員は、識別用に白線が入ったヘルメットをかぶり、先にタンポが付いた棒を携帯した。火炎びんは信号筒で、投石は布で代用した。

     状況開始後、占拠されたビルに見立てた丘の上(ビルの屋上とみなす)にヘリが飛来した。まずUH-1から隊員数名が懸垂降下で降り立ち、続いてV-107が着陸、あわせて約80名の隊員が送り込まれ「ビルの屋上」を確保した。(*)

     これと合わせ、地上でも部隊が前進。対抗部隊は、想定上の街路に車(廃車)を並べ火を放って抵抗するが、主動部隊は催涙ガス弾と放水で規制しつつ、ブルドーザーで障害を排除する。部隊は戦車と共に想定上のビル敷地内に突入し、ここで状況終了となった。状況開始から終了までに要した時間は35分間。

 以上5例(*)。勝負の年を目前に控えた1969年・昭和44年に集中しているはいかにも…です。

 ところで。この時期は、部隊における訓練とは別に、先に軽く触れたところの陸自調査学校対心理情報課程での教育も活発に行われていたことが分かっています。

 治安出動先として想定されるのは都市。現に人が居住し生活し働いている、生きた存在としての都市。そこは、単にビルが立ち並んだだけの場所ではなく、無数の人々が生活の基盤を置き、あるいは労働の場としている空間であり、もろく繊細な機能が集約された場所です。治安出動に当たっては、この生きた都市の特性を掴み取ることが重要であり、単純に戦車や大部隊を侵入させ見敵必殺の火力を発揮すればいいというものではありません。対心理情報課程の生みの親・山本舜勝元陸将補の著書に曰く。

「 都市は、そこに依存し、たえず浮動している群集の生活の場であり、うごめく群集もまたその一部である。群集は意志をもち、感情を備え、状況を感じ取りながら、時には傍観し、あるいは反発し、あるいは拍手を送る。緊急時に、騒乱に対処する治安出動は、その揺れ動く群集の心理をとらえられない限り絶対に成功はしない。
 群集の心理をとらえ損ない、彼らを敵に回すようなことにでもなれば、すでにその時点で治安出動は失敗し、かえって火に油を注ぐような最悪の事態をも招きかねないのである。
 正規戦と治安出動とでは、戦場のとらえ方が本質的に違う。戦場に対する基本認識が間違っていては、決して闘いには勝てない。」(*)

 都市とは生ける存在であり、治安出動における戦場のとらえ方は治安出動特有のものだという訳です。例えば…「暴徒が大挙しておしよせてくる。われわれは当然戦車をさしむけて制圧する。だが相手側は、戦車をはばもうとして女を投入するかもしれない。戦車の前に寝そべらせるのだ。普通の軍隊同士の戦闘なら敵軍が目の前に迫っているとき、女などにかまっちゃいられない。だが国内戦ではそうはいかない。女をひき殺す。戦車は女を踏みつぶし、キャタピラは血で染まる。周りには大群衆がいる。そのときの大衆の感情は急速に自衛隊への反感となるだろう。治安出動の効果は雲散霧消する。そういうことを考慮しないと国内戦はたたかえない」(*)

 陸自調査学校の対心理情報課程(CPI)とは、こうした認識を前提として間接侵略対処の戦術教育を施す課程であったらしい。教育訓練は「予想戦場」たる都市を舞台に行われることも多く、時あたかも70年安保闘争で荒れる現場に極力接近し、騒擾の間近であれこれと教育が行われていた模様です。(*)

 その詳細は今なお闇の中ですが、「対心理」すなわち心理戦に対抗する、そのためには心理戦の手口を知る必要がある、という名目でもって、様々な「実習」が行われたことが分かっています。明らかになっているのは、CPI第11期(昭和44年4月12日調査学校入校・同9月30日卒業)の学生が行った実習です。まずは、昭和44年6月7日から8日にかけ、学生15名が東京山谷のいわゆるドヤ街に分散して宿泊し、その間に教官と1回連絡を取り、翌日上野公園に集合する、というもの。実習中の服装は私服。また時期は不明ですが、調査学校の周辺(※調査学校の所在地は東京の小平)にてビラ配りやポスター貼りを行い、あるいは夜間に自衛隊の駐屯地へ潜入してポスターを貼る、という実習も行われました。これらは、決して工作員の養成教育などではなく、あくまで心理戦の手法を知り防御に役立てるという目的の上に立ち、心理戦の手法である潜行・潜在や情報宣伝を直接体験するための実習だった…と説明されています。(*)

 CPIで教育を受けた自衛官が、実際どのような任務に就くのかはよく分かりません。CPIの研修学生は一般部隊出身なのか、情報部隊出身なのか、出動時には私服で工作員めいた活動を行うのか、それとも部隊内で知見を活用するのか……。CPIを工作員の養成コースとみなし、CPI卒業生は治安出動時に私服でもって謀略活動に従事する、と断じている本もあるのですが(*)、一体どこまで信じていいものやら。

 参考までに付言しますと、CPIは昭和48年に「心理戦防護課程」と名を変えており、同課程では一般部隊の幹部を対象に心理戦の対処法・防御法を教えたとのことです。彼我の部隊間での心理情報戦について有効に対処する方法、有事における部隊への心理攻撃を無効ならしめる防御方法、といったものなのだそうで、国会では「有事の際に自衛隊が仮に本土で戦うというような場合を想定いたしますと、いろんな形で、例えば航空機によるビラであるとか、あるいはいろんな意味で向こうの陣営から我が方の陣営に早く投降せいとか、そういうふうな働きかけがあると、そういう意味でございます」と説明されていました。課程の研修学生は、先にも触れた通り一般部隊の幹部であり、情報関係部隊の要員ではないとのこと。(*)

 対心理情報課程から心理戦防護課程になって、何がどう変わったのか/変わっていないのか、心理戦防護が治安出動とどう結びつくのか、いまいちよく分からないのですけれど……ただ、先に例示した「女を戦車の前に寝かせる」といったような行為は、治安出動した部隊の動揺を誘う心理攻撃とも捉えられましょう。こうった心理攻撃への正しい対抗戦術を教わる(間違っても、いきなり撃ったり轢いたりしてはいけない!)、ということならば、一般部隊の幹部に対する心理戦防護課程の教育は治安出動とも大いに関係あり、ということになります。もっとも、仮定に仮定を重ねた話でしかありませんが。

 ともあれ、部隊の実動演習に、治安出動を見据えた心理情報戦教育。演習場の中ではメディア向けの訓練展示が行われ、演習場の外では私服での秘密活動教育がなされていた70年安保の時代。そこから分かるのは、良し悪しの評価はともかく、自衛隊は本気だったということです。

 以上、60年安保に比べ格段に念入りになった70年安保に対する自衛隊の態勢を見て来た訳ですけれども。幸いなことにと言うべきか、この時も自衛隊が治安出動することはついにありませんでした。1970年・昭和45年6月23日、安保条約は発効から10年目を迎えました。これで、日米どちらかから通告があれば安保条約の廃棄が可能、すなわち日本側の決意次第で条約終了が可能になります。しかるに、安保廃棄を実現させようという左翼の活動は、60年安保の時ほどに広範な盛り上がりを見せることはなく、大学を占拠しあるいは街頭で暴れ回った学生運動も警察が鎮圧。自衛隊の治安出動は、この時も幻となったのでした。

 

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